明治初期、「眠れる獅子」と恐れられていた大国・清と交渉し巨額の賠償金を勝ち取ったのが維新の元勲、大久保利通だ。尖閣諸島問題での弱腰外交が批判されるなか、当時の毅然とした外交交渉を上智大学名誉教授、渡部昇一氏が解説する。
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明治4年(1871年)11月、琉球の漁師54人が台湾に漂着した時、惨殺されてしまった。ところが清国政府は謝罪にも賠償にも応じない。それで政府は西郷従道を出兵させ、ただちに台湾を鎮定した(明治7年5月)。
それに引き続き清国と交渉するが埒(らち)があかない。全権公使は柳原前光(さきみつ)であったが、これでは話がつかないので、参議の大久保利通自身が全権弁理大臣となって北京に行くことになった。司法省からは井上毅がついてゆく。
清国政府は日本が先ず台湾から撤兵することを求めたが大久保はこれを拒絶して談判は決裂せんとした。その時、大久保は井上に最後通牒(つうちょう)の文案を起草させた。その主旨は次の通りであった。
「台湾の原住民(当時“生蕃”と言う)は清国の“化外の地”の民と言う以上、台湾は主権国に属さない。それなら日本が台湾を統治し“生蕃”を文明に浴させることにする。われわれは10月26日に北京を去る」
そうして大久保は北京駐在の各国外交官に挨拶をした。この時、イギリス公使が日清間の調停にのり出してきた。彼は清国政府に頼まれて大久保を訪ね、「10万両を賠償金として出すから合意してくれないか」と言ってきた。
大久保は次のように答えた。
「償金をいくら出すかは清国の自由にまかせる。われわれはまず日本が台湾に軍隊を出した正当性を認めることを清国に要求する」
この結果、清国は日本の台湾出兵を正義と認め、先ず賠償金10万両を払い、更に後に50万両を払うことにしたい、と答えてきた。
大久保は清国政府を訪ね、大臣らと会見して、その謝罪を受け、50万両の賠償金を得、日本側の台湾からの撤兵を約束した。明治7年10月31日のことである。
これは、単に謝罪、賠償を得ただけでなく、当時、日清間で争いのあった琉球の帰属先について、賠償金を払わせることで間接的に「日本のものである」と認めさせたことにもなる。
※SAPIO2011年1月6日号