政治的リーダーシップの不在、経済的不況と2010年の日本社会を覆う空気は暗かった。その空気は私たち日本人の心をますます不安にし、活力を喪失させている。「心の不安」とは何か、芥川賞作家で現役僧侶の玄侑宗久氏に聞いた。
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現代の日本人は「計画病」による自縄自縛に陥っているが、もうひとつ、ネットワークの発達によってさらに自己を縛りつけている。
最近はブログなど、自己言及と記録を兼ねたような文章をよく見かける。そして「自分はこういう人」だと、知ったようなことを書いているのだが、果たして人間はそれほど解りやすい存在なのだろうか。熱心な記録や自己言及が、却って自己をことさらに限定し、苦しめてはいないか。
禅では過去を引き摺ることを泥亀に喩える。泥だらけの亀は歩いた跡を甲羅の分まで大げさに残す。そんなふうに、自分の過去を示してどうなるのかと、禅家では発想するのである。
歴史家にはうつ病が多いと言われるが、それも過去に一貫した解釈を求めすぎるせいだと思える。現代人の多くは、たぶん情報という泥に浸かりすぎたうつ症状の亀なのだろう。
さらにはツイッターなるもので、政治家も老若男女の一般国民も対等につぶやく。そこには「待つ」「凌ぐ」「暖める」ということがなく、軽い言葉がネットワークに流れる。すぐにつぶやきたくなるほど政治家も国民も不安を抱えているのだろう。
不安とは何か。それは今ここにないものを頭の中にあれこれ浮かべている状態と言えるだろう。いわば、過去の材料で未来を想っているのだ。
現代人の不安ももちろん同じことだ。その時その場になってみなければ何も分からないし、解決にもならないことを、シミュレーションなどと称して見通したつもりになる。しかし、当然ながらそんなことで真の安心は得られない。
未来は分からないものと割り切り「今」にしっかり立つ。一歩を踏みしめる場所は常に「今ここ」だが、その一歩の置きようで未来は少しずつ変化する。安心してその変化に応じつつ「今、今、今」と進めば、そこには不安も起こらないし、あやふやな未来を信じることさえ不要ではないか。
「今」この瞬間に大問題があるかどうか、それだけを気にすればいい。だが、残念なことに現代日本人は現実を感じる「直観力」を失いつつある。
※SAPIO2011年1月26日号