その男の姿は、横浜ベイスターズの二軍が使用する平塚球場にあった。2006年にニューヨーク・メッツとメジャー契約して海を渡った入来祐作の現在の肩書きは「選手」でなければ「コーチ」でもない。
「用具係」である。
「別に用具係であることに恥ずかしい気持ちはありません。さんざん好き勝手やって野球界に迷惑をかけた。それなのに今も野球界に携われている。恩返しです。サポートしている二軍選手が上(一軍)で活躍することが僕の生き甲斐になっています。現役時代は他の選手が活躍することは嬉しくもなんともなかった。ライバルが活躍すれば自分の出番が減ることになるかもしれないわけですから」
読売巨人軍かドラフト1位指名をうけローテーション入りするもメジャー挑戦を口にしたことで日ハムにトレード。2005年オフに日ハムから提示された2年2億円の条件を蹴って、翌年にメッツとメジャー契約を果たす。
「もう一度プロ野球選手になった気分でした」
しかし、スプリングキャンプに参加してすぐに挫折は待っていた。当時のメッツにはメジャーを代表する右腕ペドロ・マルチティスなどがいたが、名前も知らない選手のピッチングにこそ入来は驚愕した。
「投球フォームはぎこちなく見えても、投げ込んでいくボールの力、コントロール……日本にやってくる外国人選手とはレベルが違っていた。自分の存在がまるで目立っていないことに気が付いた。正確なコントロールや変化球のキレで対抗したくても、僕にはその技術がなかった。厳しくなることは容易に想像できました」
メジャーで開幕を迎えることがかなわず、マイナーに降格。もう一度這い上がろうと3Aでの登板を果たした矢先、禁止薬物を摂取していたことが判明し、50試合の出場停止処分を受けてしまう。
「あれこれ言い訳はしたくありません。僕は身体が小さいことがコンプレックスで、少しでも大きくしようといろんなことを試していました。アメリカに行くまでの2年間にトレーニングをものすごくやって、体重は巨人時代から10キロぐらい増えていた。なんとかコンプレックスを取り払いたかったんです」
2年間のアメリカ生活では結局メジャー登板を果たせず、2007年に帰国。2008年シーズンはテスト入団した横浜で過ごしたが、同年オフに戦力外通告を受けた。
※週刊ポスト2011年7月8日号