震災以後の日本はどう針路をとればよいか。作家・津本陽氏(82)は秀吉時代の大阪城築城作業から学べると語る。
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私は16歳の時に勤労動員先の川崎航空機明石工場でB29の爆撃を受け、従業員400名即死の現場を目の当たりにしている。今回の震災は、あれ以来の「覚醒」の感覚といいますか、昨日に続く今日、今日に続く明日という、日常の連続性への信頼を、良くも悪くもプツンと断ち切られた思いがしました。
だから私は、それこそ復興だってもっと急ピッチで進むと思っていたんですよ。それを未だにモタモタしているのが全く理解できないし、円高にしてもなぜ早急に手を打たないのか、不思議でならないんです。政府・日銀はあれだけ円を抱え込んで何もしないなら、いっそ復興資金に30兆でも回したらいい。それだけで経済は活性化し、日本全体が元気になれば、被災地の回復も早いというものです。
例えば豊臣秀吉は大坂城築城の際、棟梁らから見積りを取ろうとする奉行を、そんなもの要らん、いくらかかってもいいから言い値でやらせてやれと窘めた。払ったカネはいずれ自分に戻ってくるとね。
それは一つの真理なんですよ。そのカネがゆくゆくは誰の懐をどう潤すのか、中長期的な絵図を描いた上で、いざ撒く時は世の中を賑わせるように一気に撒く。子供に1万、2万のカネをチビチビ配ったところで、毒にも薬にもならずに消えてしまうのは道理で、それなら円高で搾り取られる中小企業へ回す方がよっぽど日本中にカネが回ります。
その点、秀吉は木曽から材木を運ぶにも何千という人足を使い、一人頭の日当を今に換算して1万5000円前後払っている。しかも当時はカネ自体の値打ちが今よりありましたから、実質3万円相当の日当を手にした人足の気勢は当然上がり、仕事が早く進むのはもちろん、その飲み食いで市中にカネが回り、世の中全体が浮き立ってくるんです。大阪人が「太閤さん、太閤さん」というのはそういうわけで、学はなくとも実地で経済を学んだ秀吉は、全て織り込み済みです。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号