太平洋戦争(大東亜戦争)とは何だったのか。最前線で戦った兵士たちは、あの戦争をどう受け止め、自らの運命をどう捉えていたのか。ノンフィクション作家・門田隆将氏が、太平洋戦争の生き残りを全国に訪ね歩き、未曾有の悲劇を生々しく再現したのが、『太平洋戦争 最後の証言(第一部 零戦・特攻編)』である。「九十歳」の兵士たちは、自分たちがなぜ戦場に向かい、何を守ろうとしたのかを後世に伝えようとしていた。時を超えても変わらない使命感と親兄弟を守るという熱い思い──門田氏がレポートする。
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二○一空三一一飛行隊長だった横山岳夫中尉はそもそも特攻に反対だった。特攻が決まる直前、横山は新たな爆撃の訓練と研究をおこなっていたことを明かす。
「真上からの爆撃です。目標を定めたら裏上になって、そのままスーッと降りる方法がある。そうすると爆弾を放す時にちょうど垂直になる。そういうやり方が有効だとわかり、訓練を繰り返していました」
その成果を確かめるべく、横山は昭和十九年十月、レイテ沖の敵機動部隊を目指して出撃している。
「十機ほどで行きました。それで敵の空母を中心とした輪形陣を見つけて襲撃しました。訓練通り、真上からの襲撃をやりましたよ」
凄まじい防御砲火の中、横山たちの爆撃は成功した。
横山機も三か所ほど被弾したが、全機が無事帰投している。
「帰ってきてから、中島正・飛行長に“次は大きな爆弾で本番をやりましょう”と進言しました。しかしその時には、すでに特攻用に改造した二百五十キロ爆弾を積める飛行機ができていました。そしたら“あなたのところに回す飛行機はない”と断わられました。そして特攻が始まりました」
横山の研究した爆撃法は結局、受け入れられず、逆に神風特攻という戦法が始まってしまうのである。特攻をやっても、「勝てる」という見込みはまずなかった。そこに問題があったと横山は言う。
「特攻のあとのことは誰も考えてないわけですな。あとは誰かがやってくれるだろうと、それだけですよ。われわれも軍人ですから、戦死は覚悟しています。これで勝敗がひっくり返るならいい。でも、そんな見込みはまずない。つまり死ぬだけが目的です。これはひどいですよ」
それは、大黒に出撃を命じた横山飛行隊長の、悔やんでも悔やみきれない思いが凝縮された言葉だった。
※週刊ポスト2011年8月19・26日号