「紳助は、常に目標、目的地がしっかり決まっててん。目的地に行くにはどうしたらいいのか、調べ、きっちりと道のりを決めていく」
漫才コンビ「紳助・竜介」で、紳助の相方だった松本竜介さん(後に竜助に改名・享年49)が、かつて島田紳助(55)のことを本誌にそう語っていた。ネタは「てにをは」まで完璧になるまで何度も稽古し、アドリブは一切なし。データと計算がすべての芸風で、彼の人生も同じだった。
その原点を辿ると、彼の父親に行きつく。
1956 年、京都市生まれの父親は、染め物屋の次男で、祖父が「商売人は勉強する必要はない」という考えだったため勉強させてもらえなかったという。それでも現在の大阪外国語大学から国鉄(現・JR)にはいった父親は、みずからの経験から、一人息子の紳助には勉強をしてほしいと願っていた。
小学3年生から家庭教師をつけられ、そのせいで「ぼくはバカになった」と後年、紳助はたびたびふりかえる。その父親は生き方が下手で、たばこも吸わない、酒も飲まない、浮気もしない、毎日午後6時45分に家に帰ってくるという真面目人間だった。
そんな父親を紳助は「何がオモロイねん、このおっさん。ハトみたいな人やな」と思ってきたとインタビューなどで語っている。国鉄では昇格試験をパスするのに、最後の面接では受からない。そして落ち込む父親の背中を見て、子供心に「人間、真面目だけではいかん」という思いを強くしていった。
それが、ツッパリ人生の始まりだった。学校では先生のいうことを聞かず、中学時代は教室の窓ガラスを割ったり、盗品を売りさばいたり、高校にはいると車上荒らしで少年鑑別所に送致されたりもした。
しかしその性格は、本当は父親譲りで気が小さかった。誰よりもそれを自覚しているから、それを他者に気づかれないよう、意識して男らしく振る舞ったりしていたのだ。
「当時、紳助はまだ10代やったけど、極道の世界に憧れとった。伝説のヤクザで、東映の任侠映画でよくモデルとなる波谷守之に心酔していました。その流れかわからんけど、ボクシングジムにも通っていた。完全な暴走族やったわ」(当時を知る捜査関係者)
※女性セブン2011年9月15日号