新橋演舞場から徒歩5分ほどの大通りの地下にひっそりと佇む高級鉄板焼き店。ここで“猿之助”という偉大な名前に翻弄され続けたふたりの男が盃を交わし、“兄弟”の契りを結んだのだった――
そのふたりとは先日、来年6月に九代目市川中車を襲名して、長男・政明くん(五代目市川團子・7才)とともに歌舞伎界入りすることを発表した香川照之(45)。そして、香川の父・市川猿之助(71)の一番弟子、市川右近(47)だ。香川の歌舞伎界入りも大きなニュースだったが、それ以上に話題を呼んだのが、45年間絶縁状態だった香川と猿之助が“和解”を果たしたことだった。
香川にしてみれば、自分の息子を歌舞伎役者にし、いずれは父の“猿之助”の名を継がせたいという強い思いからの決断だったに違いない。こんな父子の復縁を複雑な胸中で見つめていたのが、他ならぬ右近だった。梨園関係者はこう話す。
「香川さんがいくら人気俳優だからといって、歌舞伎は未経験。それなのに澤瀉屋(おもだかや)でも格の高い名跡である中車を継いだ。お弟子さんたちは、猿之助さんが決めたことが“絶対”ですから、決して口を出すことはありませんが、快くは思ってはいなかったはずです」
弟子たちの中でも、右近は猿之助の“後継者”といわれていただけに、その思いはなおさらだろう。日本舞踊の家元の長男として生まれた右近だったが、小学3年生のときに見た猿之助のファンタジックな演技に魅了され、11才で猿之助の第1号の部屋子に。以来、公私ともに猿之助のもとで学び続けた。
2003年、猿之助が脳梗塞で倒れたとき、澤瀉屋を支えたのは右近だった。
「猿之助さんの役を、代わりに演じ続けたのが右近さんでした。猿之助さん不在でスーパー歌舞伎のチケットもあまり売れなくなり、観客動員も減ってしまいました。そんなときでも、当時まだ存命だった(藤間)紫さんとともに一門をまとめ上げ、盛り立ててきたのが右近さんだったんです。その姿を紫さんは見てきただけに、生前、“右近さんを芸養子にして猿之助を継がせたい”と話していたそうです」(前出・梨園関係者)
右近はあるインタビューでこんなことを語っている。
<市川猿之助が創ったものが、五〇年、一〇〇年と続いていったときに、師匠が創造された「スーパー歌舞伎」や古典作品というものの価値が見いだされるし、創始者としての猿之助の名前が歴史に刻まれる。だから、僕らがやらなければいけないことは、師匠の名をいかに「歌舞伎年表」に遺すかということでもある>
その言葉どおり、猿之助のために人生を捧げてきた右近。なのに最後の最後に“やっぱり血を優先する”となったら、その落胆は大きく、香川への思いも複雑だったはずだ。
そんな右近の気持ちを察したのか、香川が計画したのが、右近たち澤瀉屋一門約20人を招いての食事会だった。
※女性セブン2011年11月10日号