10月上旬のある夜、東京のJR大久保駅からほど近いマンションの前にけたたましくサイレンを鳴らした救急車が横付けされ、1人の男性が運ばれていった。後には男性が飼っていたシーズー犬が1匹、主のいなくなった部屋でいつまでも鳴いていたという。
その男性の名は通称名・チビ太さん(享年63)。新宿3丁目のオカマバー『プチマレーネ』のママだった。美川憲一とは「ケン坊」「チビ太」と呼び合う間柄で、かつて周囲は2人を“恋人同士”と見ていた。かねてからチビ太さんと交友関係にあった新宿2丁目のゲイバーのマスターは、こう語った。
「衰弱して餓死したと聞いているわ。死後1週間ぐらい経っていたらしく、静岡に住むお兄さんが遺体を引き取りに来たんだって。店を閉じてお金がなくなって、経済的にどうしようもなくなっていたから……。電話1本寄越してくれたらって思うと、悔しいわ」
華やかなりし世界に生きたチビ太さんが最後、お金が尽き一人食べるものにも困り果て、亡くなったのはなぜなのか。2人の出会いは、40年以上も前に遡る。美川は1965年に歌手デビューしたが、その以前から新宿2丁目や3丁目界隈に入り浸っていたという。当時を知る関係者はこう語る。
「美川さんとチビ太、そしてある有名歌手と歌舞伎役者の4人でつるんで飲み歩いては、“この男がいい、あの男がいい”なんて話で盛り上がっていた。お互いに男を紹介し合ったりね。彼らの青春真っ盛りの頃だった」
そして美川が『柳ヶ瀬ブルース』(1966年)などのヒットを飛ばすと、1969年には3丁目に『ろくでなし』(後の『プチマレーネ』)という店を持った。その店の雇われママをしたのがチビ太さんだった。「チビ太」の愛称も、小柄で色黒だったことから美川が名づけたものだという。
「店内には美川が自宅から持ってきた絵画やバカラの花瓶などが置かれ、銀座のクラブのような豪華な雰囲気でした。チビ太さんが大好きだった女優のマレーネ・ディートリッヒの肖像画もいくつも飾られていた。『プチマレーネ』の『マレーネ』もそこから取ったと聞いています」(元常連客)
その店は、2人が好きな物が所狭しと並べられ、チビ太さんを慕う他店のママや有名なミュージシャンや芸能人も訪れるなど、いつも客で溢れ、賑やかだったという。
「チビ太は頭の回転も速いし、話術もうまい。2丁目のお店の若いゲイのママからも尊敬を集めていました。いつもきれいにお化粧して、身だしなみにも気をつかっていましたね。 お客さんがいっぱいでも“アタシ帰るわ。だって、ヒゲが伸びてきちゃったんだから仕方がないじゃない”って帰ってしまう。それを聞いて客も納得するんだから、すごいママでしたよ」(別の元常連客)
※週刊ポスト2011年11月11日号