「きんは100シャア、ぎんも100シャア」――そんな名セリフで日本中を沸かせた双子の100才、きんさんぎんさん。あれから20年が経ち、ぎんさんの4人の娘たちもいまや平均年齢93才、母親譲りのご長寿だ。彼女たちがいま、元気で幸せいっぱいに暮らしている陰には、母親から授かった教えがある。
4姉妹が乙女時代を送ったのは戦前の1930年~1940年代。昭和1ケタから10年代ころのことだ。ぎんさんの厳しい躾で礼節をわきまえるようになった姉妹たちは、やがて思春期を迎えた。
三女・千多代さん(93):「いまの子はませとるが、わしらの時代は子供のうちに恋愛なんてありゃせんがね。女のしるし、初潮もいまより4~5年遅かったなあ。私は16才のときやった。そりゃあ、びっくりしたよ」
長女・年子さん(98):「わしらのころは、下着はまだ腰巻きでな。それが真っ赤になって。けがもせんのにどうしたんだろうって、そりゃあ驚いた。そいで、“おっかさーん!”って騒いだら、母(ぎんさん)が“おめでとう”いうて。手当ての仕方をな、丁寧に教えてくれただが」
千多代さん:「そうそう。けど、何がめでたいのかわからんかったから、やっぱし、うぶだったんだにゃあ」
当時は、いまのように学校で性教育をすることはなかった。情報がないから、ふたりが驚いたのはもっともである。
五女・美根代さん(89):「姉さんらとちごうて、私らのころには、学校で女の子だけが集まって、先生に教えてもろうたから、びっくりはせなんだよ」
こうして姉妹たちは、女としての季節を迎えたが、当時は“恋愛”など考えられない世情だった。
四女・百合子さん(91):「男の人と話をするぐらいはええが、腕を組んだり、どっかへふたりで遊びに行こうもんなら、“あれはふしだらな娘や”ちゅうてな、たちまち悪い噂が広まった」
千多代さん:「そりゃ、恋愛しとる人もあったけど、うちの母親は、そういうことに厳しかったよ」
昭和10年代、名古屋市南部では、夕食がすむと、娘たちが一軒の家に集まり、地元に伝わる絞り染め「有松絞り」の作業をしながら歓談するという風習があった。これを、当時は“夜遊び”と呼んだ。
美根代さん:「なんでかいうと、そこへ相手を物色しようとしてね、近所の若い男衆たちが遊びにくるの。ほんだで“夜遊び”っていったわけ。早い話がいまの“合コン”だがね」
百合子さん:「それで意気投合していい仲になり、ゴールインする人もおったけど、私ら姉妹は、母親が目ぇ光らせとった。有松絞りの作業も自宅で家族だけでやっとったから、夜遊びはどだいよう行けんかったわ」
そんなぎんさんは、娘らにこういうのが口癖だった。
<おなごちゅうんは、とにかく“操(貞操)”を守らんといかん。ちゃらちゃら、でれでれするんでにゃあよ>
ぎんさんは、娘たちの身だしなみにもうるさかった。
美根代さん:「私が18才になったころ、スカートをはくようになったけど、この長さがな、ひざっ小僧から10cm下までないと怒られた。ミニスカートなんてとんでもない、それが当たり前の時代やった」
※女性セブン2011年12月8日号