日本を蔑視しながらも、その繁栄ぶりに驚いていた朝鮮通信使、朝鮮で貨幣流通が遅れた理由、そして韓国屈指の「郷土料理」キムチの謎……。ほとんど学ぶ機会のない、両国の意外な歴史を解き明かす、「そうだったのか! 正しい朝鮮史」。今こでは、18世紀につくられた「朝鮮通信使」につづられた日本人観を紹介しよう。
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当時の朝鮮人、特に朱子学を信奉する朝鮮の文人から見れば、日本は中華文明の教化を十分に受けていない島狄(島に住む野蛮人)に過ぎないという意識が強かった。朝鮮通信使も日本の風俗を儒教の道理から外れた野蛮なものと見ており、さらに豊臣秀吉の侵攻(文禄・慶長の役)に対する怨念を抱いていた。朝鮮通信使が書き残した紀行文には日本の風俗を蔑視したり嘲笑する内容が随所に見られる。日朝友好の証としてよく引用される申維翰(1748年に来日)の紀行文『海游録』にも日本の風俗を指して「禽獣に等しい」と評した部分がある。
ただし、朝鮮通信使も日本のことを貶してばかりいたわけではなく、都市の繁栄や女性の容姿、山河の美しさ、技術の巧みさなどについては素直に賞賛している。1753年に朝鮮通信使の三房書記として来日した金仁謙も富士山を絶賛し、大坂の発展ぶりを「我が国の鍾路(ソウルの大路)の一万倍も栄えている」「一行中に北京に行った訳官(通訳)がいたが、その壮麗さもこれほどではなかったという」などと手放しで絶賛。
大坂の繁栄ぶりについては1711年に来日した任守幹も「家々の大きさと繁栄ぶりは中国の通都(大都市)も及ばぬほど」と評している。金仁謙は尾張名古屋で見た当地の女たちを楊貴妃、趙飛燕(前漢成帝の皇后)に例えて賞賛し、「美しさに恍惚となる」とまで記している。
※週刊ポスト2011年12月16日号