12月8日(現地時間7日早朝)、日本がハワイ・真珠湾を攻撃してから今年で70年目を迎えた。
ワレ奇襲ニ成功セリこれを意味する符丁「トラ、トラ、トラ」があまりに有名なこともあり、一般に真珠湾攻撃は終始計画通りに大成功したと受け止められている。だが、実は幸運に恵まれた薄氷の勝利だった。
「信号弾が2発上がったので『強襲』と間違えて、戦闘機隊と艦上爆撃機隊が、我々艦上攻撃機の雷撃よりも先に敵基地に攻撃を仕掛けてしまった。これは大きなミスでした」
空母「加賀」の雷撃隊員として真珠湾攻撃に参加し、数少ない生き証人である、前田武氏(90歳、97式艦上攻撃機・偵察員)は、この奇襲攻撃は“失敗”から始まったと証言する。
真珠湾攻撃は、「真珠湾奇襲」とも言われるが、「奇襲」は敵に察知されていない状況下、たとえば敵戦闘機の迎撃がない状況下での攻撃だ。その場合、魚雷を抱いた雷撃隊が先行して敵艦に魚雷攻撃を仕掛け、続いて地上の敵戦闘機や対空陣地などを殲滅する艦上爆撃機(急降下爆撃機)が攻撃する手順だった。
奇襲攻撃は、飛行総隊長・淵田美津雄中佐の指揮官機からの信号弾1発が合図だった。
一方、敵に察知され、敵戦闘機が待ち構えている状況下などでの攻撃は「強襲」となる。この場合は、指揮官機が信号弾を2発発射し、奇襲とは逆に、制空を担任する戦闘機隊と急降下爆撃隊が先行して敵を制圧した後に、雷撃隊および水平爆撃隊がこれに後続する手はずだった。
1941年12月8日の真珠湾攻撃は、米軍が察知しておらず、完全な奇襲だった。だがそこに大変なミスが発生していたのだ。
「飛行総隊長の淵田中佐機からまず1発の信号弾が上がったので、我々艦上攻撃機隊は突進を始めたんですが、援護する戦闘機隊が動こうとしなかった。そこで、淵田中佐は、戦闘機隊に1発目の信号弾が見えなかったと判断して2発目の信号弾を撃った。これが失敗でした。今度は、艦上爆撃隊が『信号弾2発』を確認して『強襲』と勘違いしてしまったんです」(前田氏)
こうして雷撃の前に、戦闘機隊と共に99式艦上爆撃機の艦上攻撃隊が、フォード島の敵航空基地などに対地攻撃を開始。攻撃を受けた地上施設や航空機は撃破され、黒煙を噴き上げて炎上したのだった。
「フォード島には飛行機のほかにガソリンタンクもある。我々艦上攻撃隊が現場に着いた時は、すでに真っ黒な煙が上がっていた。この黒煙がもし、我々が攻撃を仕掛ける海側に流れていれば、魚雷攻撃は不可能だったでしょう。
というのも、水深の浅い真珠湾内の敵艦を魚雷で攻撃するには、海面すれすれの高度10mで飛び、この超低空から、深く潜らないよう工夫された魚雷を慎重に投下しなければならなかった。もし黒煙が海面を覆えば魚雷攻撃はできなかったかもしれない。だが運よく風が味方して、黒煙が海側に来ることはなく、目標が鮮明に見えた」(前田氏)
雷撃隊は敵戦艦群に肉薄して次々と魚雷を命中させた。この時の様子について前田氏はこう回想する。
「戦艦『アリゾナ』には修理用の小さな艦が横付けしており、雷撃しても魚雷がその小さな艦に当たる可能性があったので、『アリゾナ』を標的から外しました。次に狙ったのが、籠マストが象徴的なカリフォルニア型の戦艦『ウエストヴァージニア』でした。まず我々2番機に先行していた1番機の魚雷が見事にウエストヴァージニアのど真ん中に命中して、バァッ! と水柱が上がりました。
直後に私の機が速度約140ノット、高度10mで突っ込んで雷撃し、魚雷は艦橋下部に命中! 私の機がウエストヴァージニアの上空を航過した後に大音響とともに大きな水柱が上がったのです。私は偵察員として戦果を確認する必要があったので、一部始終を目に焼き付けました。あの光景は今も忘れられません」
だが、雷撃後もそれで安心というわけではなかった。
前田氏によれば、敵の対空砲火も激しさを増し、とりわけ、標的にされなかった小型艦艇からの対空砲火によって味方機が被弾したという。
「雷撃後、北島大尉の1番機が黒煙の中に突っ込みました。黒煙の下には炎があるので、あまり低いと危ないと思いましたが、我々も1番機に続いて黒煙をくぐり抜けた。結局はそれで助かった。黒煙を避けて右旋回した機は、対空砲火に狙われたんです。我々の空母『加賀』だけでも5機がやられました」(前田氏)
今度は黒煙が、自らを守る“煙幕”となったのだ。
黒煙との戦い。それが真珠湾攻撃のもう一つの戦いだった。
■取材・構成/井上和彦
※SAPIO2011年12月28日号