福島県いわき市。震災から9か月、復興バブルは瞬時に去り、作業員宿舎のある温泉街から、賑わいの灯は消えた。いま、事故の後処理に従事する作業員たちは、どんな日常を送っているのか。作家の山藤章一郎氏が報告する。
* * *
午前5時10分。外は闇。教室ほどの旅館ロビーにほぼ20人の男たちが寝床から降りてきた。原発作業員の宿泊所である。
みなニット帽をかぶり、ダウンあるいはドカジャンに、スニーカー、手にコンビニのレジ袋、肩からビニールバッグを担ぎ、私語は交わさない。物音も立てない。
20分。男たちは次々、旅館駐車場の〈HITACHI〉と腹にロゴを染めた大型バスに乗り込む。30分ちょうど。乗員の点検も合図もなく、バスはだしぬけに出発した。
第一原発から40キロ地点、福島県いわき市湯本。〈フラガール〉の〈スパリゾートハワイアンズ〉が地元の温泉街である。バスは未明の山道を飛ばし、街道沿いの〈セブン-イレブン〉に停まった。跳びおりた男たちが、白々と明るい店の、弁当とドリンクの棚に駆けこむ。
30代前半と60歳手前のふたりの男の手許が見えた。〈オムライスドリア〉〈おにぎりいなりセット〉〈博多もつ鍋みそあじ味噌汁〉それに〈熟女エロ本〉……カウンターで1000円札、万札を出す。遅れて戻った濃緑色のドカジャンを乗せ、バスはまたもや急発進した。
バイパスをはずれ、山を越える。山裾を縫う細道と峠のすきまから、やがて次々と車が湧きだしてきた。ほとんどがミニバン。福島県の山の中のまだ暗い朝5時50分、いつのまにか大渋滞が始まる。ヘッドライトの帯がひとすじになって北上する。
車列は常磐自動車道に入り、ますます膨らむ。明るんできた空に、山の稜線が黒く浮かびあがる。バスはインターを降り、突然またくねった山道を辿り、学校のグランドほどの駐車場のある温泉場に着いた。福島県広野町〈目の湯温泉〉という。
「太平洋の波浪が四六時中、断崖を洗っており」『東京電力三十年史』(昭和58年発行)は、〈福島第一原発〉の記述を、そして誇らかにつづける。
「新鋭火力の大容量化が進められている時代に、他に先駆けて先見的に行動を開始したことは特筆されよう」
昭和38年、東京ドーム66個の広さの320万平方メートルの用地を取得した。原野だった。3.3平方メートルあたり2円70銭で売った地主たちは、きそって新しい家を建てた。
製塩事業を展開する旧陸軍航空隊の基地跡だった。まず、地上6階、地下2階の1号機建屋ができた。最盛期、1号機だけで3000名が作業をした。いまそれと同じ人数の作業員が、事故の後処理に従事している。
小林千賀子さんは、作業員たちが宿泊するいわき市湯本旅館近くで、コンビニ〈WAIWAI SHOP〉を経営している。朝早い作業員は銀行に行けない。
「『九州のかあちゃんに、5000円送金してくれんとね』って持ってきます。パチンコに使っちゃわないようにね。えっと、今日も」
小林さんは手帳を取りだした。
「5681円がひとりと1100円です。『ここに送って』って。九州の人が多くて、カップ麺もなじみの〈マルタイ〉にしてます。旅館の食事は出ますが、東電から、夜遊び禁止令が出たので今は部屋飲み。補食に、ラーメンやら、レトルトの牛丼やら買って。
70歳を超えて補聴器をつけたおじいちゃんもいます。技術がないからホースを持つ仕事をして6000円。普通の日当は1万2500円。みんな危険を冒して黙々と働いてるんです。
胸で線量計が鳴りっぱなしの人も『1年はいる気で来たけん、正月も帰らんっちゃ』って」
※週刊ポスト2012年1月1・6日号