東日本大震災から9か月。家族を亡くした人々は、悲しみを乗り越え生きている。宮城県東松島市の病院で看護部長を務める尾形妙子さん(51才)も、そんなひとりだ。妙子さんは、震災で夫の登志憲さん(享年51)、次女の志保さん(享年22)、長男の剛さん(享年20)を失った――
3月11日午後2時46分。東日本大震災が発生。勤務中だった妙子さんは、院内の安全確認やけが人の対応などに追われ、家族に連絡することもままならなかった。夕方、ようやく夫や子供たちに電話したがつながらない。志保さんの『私と剛ちゃんとマシュー(犬)は避難したよ』というツイッターへの書き込みを確認したが、自宅近辺で200人以上の遺体が発見されたと知り背筋が凍りついた。それでも、緊急で運ばれてきたり、駆け込んでくる患者の対応で病院を離れることはできなかった。
「ずっと病院にいたはずなのですが、記憶が断片的で、寝ていたのか起きていたのかもわかりません」
震災から5日後のことだった。「遺体安置所に志保がいる」。親戚から連絡があった。安置所は剛さんの通っていた高校の体育館だった。
「この体育館にいる人が…何なのか、一体何が起こったのかわからず、一瞬、涙も出なかった。受け入れていなかったんだと思います。見なくちゃと思いつつ見ていなかった」
さらに数日後、運河に水没した車の中で夫と息子が見つかった。震災直後、会社を出た夫は子供たちと合流し高台に避難したが、想像を絶する巨大な津波にのみ込まれたのだった。妙子さんは他県に嫁いだ長女や親戚にガソリンを運んでもらい、山形で3人を火葬した。
3月末、妙子さんにある知らせが届いた。志保さんが看護師、保健師の国家試験に合格していたのだ。病院で働く母親の背中を見て育った志保さんは、中学生のころ突然、「こんな世知辛い世の中で、人のために泣ける仕事って素敵だよね」とつぶやいた。
「その後、娘から看護師になりたいといわれてとても嬉しかった」
志保さんが看護師の国家試験を受験したのは震災前の2月のことだ。看護師の試験は合格率が高いから逆にプレッシャーがかかる。それを知る妙子さんは、受験勉強する娘をハラハラして見守った。そして試験終了。「答え合わせしたら、ありえないほどいい点だった!」と半泣きで喜ぶ志保さんと抱き合ったことが、昨日のことのように思い出される。
妙子さんは、どうしても志保さんの合格証書を手に入れたくなった。しかし、国の規定で死亡者に証書は交付できないという。あきらめられない妙子さんは、看護協会や連盟の役員に直訴するなど懸命に手を尽くした。すると、事情を知った国会議員の働きかけもあり、ようやく4月、例外的に合格証書を手渡してもらうことができた。その証書を愛しそうに見つめて妙子さんが微笑む。
「これは志保の分身であり、彼女の生きた証。どうしても欲しかった。私は3人が生きてきた証を糧に、これからを生きていくんです」
※女性セブン2012年1月5・12日号