「きんは100シャア、ぎんも100シャア」―そんな名セリフで日本中を沸かせた双子の100才、きんさんぎんさん。あれから20年が経ち、ぎんさんの4人の娘たちもいまや平均年齢93才、母親譲りのご長寿だ。彼女たちが当時のつらい思い出を語ってくれた。
1937年(昭和12年)7月7日、中国の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が勃発。翌年には国家総動員法が公布され日本は戦争という暗いトンネルにはいっていった。中国からのニワトリの餌も途絶え、ぎんさんの家では、養鶏業をやめざるをえなくなった。
そして1941年(昭和16年)、12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争へ突入していった。この戦時下、ぎんさんの心はいたく傷ついた。
というのも、双子でライバルのように競っていた姉・きんさんは、夫・良吉さんとの間に4男7女をもうけ、この戦争で長男と次男を中国大陸の戦地に送ったが、ぎんさん夫婦は男の子を授からなかったからだ。
百合子さん(四女・91才)「私らが結婚する前は、そりゃひどい目におうた。男はお国のためにと兵隊に出せるが、うちは女の子ばっかりだったでな。世間からはそりゃ白い眼で見られた」
太平洋戦争では、最大で700万人以上の徴兵が行われた。夫や子供、父親が戦争に駆り出され、多くの家庭はつらい思いをした。そんななか、女ばかりのぎんさん一家は周囲から浮くようになり、疎んじられた。
美根代さん(五女・89才)「道を歩くだけで、非国民といわれたがね。おっかさんも、“お前さんとこは女ばかりだで、人手が余っとるやろ”と、皆が嫌がる消防団の仕事や婦人会の仕事などを次から次へと押しつけられた。畑で細々と野菜を作っとったが、当時は供出というて、国に出さないかんかった。それもうちは、よそより余計に出せぇっていわれただが」
ぎんさんはそんなときでも、ただ黙ってじっと耐えていた。
年子さん(長女・98才)「そりゃあ、おっかさんも悔しい思いでいっぱいだった。地団駄踏みたい気持ちだったが、“悪いのはあの人たちでにゃあ。戦争だがね”といって黙って耐えてござったよ」
※女性セブン2012年1月5・12日号