かつて、日本中を沸かせた双子の100才、きんさんぎんさん。あれから20年が経ち、ぎんさんの4人の娘たちもいまや平均年齢93才、母親譲りのご長寿だ。彼女たちがいま、元気で幸せいっぱいに暮らしている陰には、母親から授かった教えがある。
戦後最大の台風被害となる5000人超の死者が出た1959年の伊勢湾台風。10万戸の家がつぶれ、30万戸が水に浸かり、被災者総数は135万人を上回ったと、当時の記録にある。高潮による悲劇は、海のすぐ近くに住んでいたぎんさん一家をも襲った。最愛の娘とふたりの孫を失った長女・年子さん(98)。姪っ子を目の前で波にさらわれた四女・百合子さん(91)。いまも涙するほど、深い心の傷を負ったという。
美根代さん(五女・89):「恐怖の一夜が明けただが、ゆんべのことが嘘みたいにな、カラリと晴れたええ天気になってにゃあ」
高潮に見舞われ、貯木場の材木が暴れ回った名古屋市南部は、とりわけ惨状を露わにした。
千多代さん(三女・94):「水が引かんから、あっちこっちに亡くなった人が浮いとった。無傷の人は、ひとりもおらなんだ。みんな頭や顔、足から血を流して死んでござった。あの光景は…もう、地獄やったな」
天白川の堤防に打ち上げられた何百という遺体。幸いに蟹江家では、全員が命拾いをした。だが、この台風で長女・年子さんは、娘の明美さん(当時27才)と、ふたりの孫(当時、長女3才と次女1才)を高潮に奪われた。
実家の蟹江家から、徒歩7分ほどのところに、四女の百合子さんが嫁いでいた。このすぐ隣家に、百合子さんにとって姪っ子となる明美さん一家が住んでおり、百合子さん一家と明美さん一家は日ごろから助け合って暮らしていた。
百合子さん:「あの日の夕暮れ、明美にね、“それほどのことにゃあならんと思うが、もし水が出てきたら、うちへ来るんだよ”って声を掛けてたの。明美んちは平屋建てでしょ。うちは2階建てだったから、そのほうが安心だと思うて…」
午後9時半近く、明美さんの家に水が浸入し始めた。不安になった明美さんは、叔母の家に避難しようと、1才の子を明美さんが、3才の子を夫が抱いて、表へ走り出た。そして、まさに運命の時刻にぶつかった。高潮が巨大なうねりとなって、母子、父子に襲いかかったのだ。
百合子さん:「“きゃーっ”という悲鳴が裏庭で響いたんで、“あっ、明美だ、戸を開けてやらんと…”と、もう夢中で裏口に走って戸を開けようとした。だけんど、水圧でな、引き戸はどうにも開かんのよ。そいで“明美ぃー、明美ぃー”と叫んで戸を引くけんど、びくとも動かんのよ」
そこへ、ドドーンと大波が押し寄せるように、水が攻め込んできた。百合子さんは扉と一緒にはじき飛ばされるように流され、室内の壁にぶつかった。
百合子さん:「その後、どうやって2階に逃げたか、よう覚えとらんの。けんど、いまもね“叔母さーん、叔母さーん”という、あの子の声が聞こえるようでな。助けてやれんかったことが、もう悔しくって悔しくって。こうやって話しとるだけでたまらんようになる…(涙声になる)」
明美さんの夫は高潮に流されながらも、近くの民家の屋根にひっかかり、命を救われた。しかし、他の3人は亡くなってしまった。
年子さん:「運が悪かったというか、娘たちを思うと不憫でならんけど、今回の大震災でも、私と同じようにつらい思いをした人たちが大勢いられる。それを思うとにゃあ、ひとりでに涙が出てくる」
※女性セブン2012年2月9日号