東北各県で避難を余儀なくされ、仮設住宅や親類宅などで年を越した被災者は約30万人。さらに、原発事故を受け、関東などから関西や沖縄といった地域へと子供を連れて自主避難した人も少なくない。そうした母親たちの苦しみは、今も続いている。フリーライターの清水典之氏が「原発難民ママ」たちの今を追った。
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東京湾を一望できる36階建ての高層タワーマンション「東雲(しののめ)住宅」。公務員宿舎としては豪華過ぎるとマスコミから集中砲火を浴びた物件だ。今ここに、原発事故で福島県の強制避難区域や計画的避難区域などから1024名(2011年11月末)の被災者が移り住んでいる。
「江東区の職員の方や近隣の方々には本当によくしていただいて、私たちは恵まれていると思います。だけど、ベランダで夕日を眺めていると、とめどもなく涙が溢れてきてしまうんです」
佐藤実津さん(33歳)は、原発から9kmほど離れた浪江町の自宅から、両親と夫、そして2歳と4歳の小さな息子を連れて避難してきた。家は新築したばかりで、両親と一緒に住み始めて2か月半で新居を追われた。
夫が勤めていた造園会社は事故の影響で倒産。今は損害賠償の一時金で生活しながら、職業訓練に通っている。佐藤さんは言う。
「補償はどうなるのか、除染して住めるようになるのか、事故から9か月経ってもはっきりしないことばかり。高線量地域なので『除染したから戻ってもいい』と言われても、小さな子供がいて、正直、戻る気になれない。自分たちだけ戻っても、コンビニも学校もない状態では生活できませんし……」
いずれはどこかで新たに生活の基盤を作り直さなければならないとは思うものの、いまだに先が見えないので、不安が募るばかりだという。
避難しているのは、こういった強制避難区域に住んでいた人々だけではない。いわき市に住んでいた川添美知子さん(仮名・41歳)は、震災直後に原発が危険な状態にあることを知り、3月12日早朝、夫と父親、4歳と9歳の息子とともに車で家を出た。埼玉県内でアパートを転々とした末、5月に旧グランドプリンスホテル赤坂の避難所に入居できた。しかし、そこでこんな体験をした。
「20km圏内から避難してきた人々から『おめえたちは早ぐ帰れ』と何度も言われて、ショックを受けました」
いわき市は避難区域に指定されていない。帰りたくても帰れない被災者からすれば、“自主避難組”は疎ましく見えたのかもしれない。
一方で、赤プリの避難所では、被災した子供への学習支援活動を行なっていたNPO法人「こどもプロジェクト」のメンバーに出会い、その支援で東京都内に居を構えることができた。今は上の子は都内の小学校に通っている。川添さんは話す。
「将来子供に何かあったらという思いだけで避難を選択した。地元の親しかった友人から『神経質すぎる』と理解してもらえなかったのが一番辛かったですね」
自主避難によって失ったものは大きい。福島で勤めている夫は、今年4月に退職して東京で再就職する予定で、非正規雇用になるため収入はざっと3分の1になるという。
自主避難組に対する公的な補償や支援は少ない。引っ越し費用も再就職もすべて自己負担、自己責任である。
※SAPIO2012年2月1・8日号