現在、崩し的に原発再稼働に向けて動き出そうとしている。ノンフィクション作家の佐野眞一氏は、誰がその意思決定の主体かわからない状況を、尋常でないと批判する。佐野氏が原発を巡る異常な事態を報告する。
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現在、日本全国にある商業用原発は計54基、うち48基が定期点検などで停止しており、残る6基も今春には全基止まる予定だと聞く。その再稼働には一国のエネルギー政策をかけた多角的な検証と綿密な議論が必要なことは、子供でもわかりそうなものだが、実際はそうなってはいない。あるのは依然、根拠なき脅し文句と、責任を曖昧にした“見えざる手”の意思だけである。
年末に、“やらせメール”問題があった玄海原発の地元、佐賀のテレビに出演した。そこで驚いたのは、九州における原発依存度の異常な高さだった。九州には玄海原発4基、鹿児島の川内原発2基の計6基があるが、その6基で九州管内の電力の43%をまかなっているという。九州に住んでいる人は、そんな高い原発依存度を許した覚えはないぞ、とたぶん言うはずである。にもかかわらず、“やらせメール”まで使って原発の再稼働に血道をあげる。これはどう見ても尋常ではない。
つまりこの国では誰が原発導入を決めたか判然としなかったのと同様に、誰が意思決定の主体かわからないまま再稼働も行なわれる。ちなみに私の個人的立場は早急な反原発にも促進にもなく、あえて言えば「緩やかな脱原発」に近いが、いずれにしろなし崩し的であることにはNOと言いたい。
なぜなら原発をめぐる構造の歪みは、まずその導入にまつわる責任の所在がはっきりしないことに始まり、いわゆる電源三法(1974年制定)にしても、原発を作り続けなければ地方経済が立ち行かなくなるという“幻想”を誰からともなく信じさせるシステムとして機能するなど、全てが病的なまでに“見えない”ことにあるからだ。
玄海原発の例を出せば、玄海町の原発導入前の予算は数億円だったが、2010年度は77億円に跳ね上がった。これは、玄海町に原発以外の企業を誘致させないための謀略だったと言われても仕方ないだろう。つまり原発問題の裏側には日本の政治の貧困さがべったりと貼り付いているのである。
特に私が原発の問題だと思うのは、働く人間が見えないことである。かつての炭鉱労働者には仕事は苛酷でも働く誇りがあった。だからそこから幾多の歌や物語が生まれた。だが、現代の原発労働者の多くは人には言えない労働に就いているという思いがあるのではないか。そんな誇りなき労働の上に成り立つ電力なり経済発展なりを享受する社会というのはどう考えても異常としか言えない。
一度事故が起きたら制御不能になるようなものを政官業と御用メディアが一丸となって死守しているアブノーマルな構造が、放射能以前に国民の拒否反応を引き起こし、原発に代わる新しいエネルギーや経済構造を希求させていることに気づくべきである。
※SAPIO2012年2月1・8日号