暴力団の若い組員は、抗争が始まると「鉄砲玉」として最前線に身を投げる。40年以上にわたって暴力団を取材し続けてきたジャーナリスト・溝口敦氏の新刊『抗争』には、若い組員達の様々なドラマが記されている。ここでは1985年当時の山一抗争のエピソードを紹介する。(文中敬称略)
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竹中組の鳥取県倉吉市の組織に輝道会があった。この輝道会に山本尊章(事件時三六歳)、清山礼吉(同二七歳)という二人の組員がいた。
彼らは考えた――わしらは倉吉の田舎にいて、神戸や大阪の地理は分からへん。地元倉吉の一和会で、マシなものいうたら赤坂進ぐらいなもんやろう──。
赤坂進は一和会の幹事長補佐だった。同会幹事長・佐々木道雄の舎弟だったが、一和会発足後、山本広から盃をもらって直系組長に抜擢された。山本、清山の二人は赤坂進を攻撃対象に定めた。
清山は小柄で、雰囲気が子供っぽい。清山は倉吉駅近くのスナック「C」で女装し、赤坂に近づくことを考えた。清山は組員といっても最末端だから金がなく、ほしくても女の服が買えない。それでソープランドに勤める知り合いの女性から服や装身具を借り、せっせと化粧と女装にいそしみ始めた。イヤリングからネックレス、マニキュアと進み、いつしか青いアイシャドウをさし、カツラを使うまでに女装は本格化していった。
女装を始めて半年たった9月、清山はスナック「C」で赤坂の席に着けるようになった。赤坂はいつも子分連れで、子分たちはやや離れた席に陣取って水割りをなめる。「あの人、強そうやね。ピストル持っとんのやろか」
清山は赤坂に平然と聞いた。当時はいつか赤坂とホテルにでも入った折、包丁で刺し殺そうと考えていたから、相手のピストルは鬼門である。
※溝口敦/著『抗争』より