ノンフィクション作家・門田隆将氏が100人を超える生還した兵士たちを全国に訪ね、取材した『太平洋戦争 最後の証言』(小学館刊)。三部作の完結編となるのが「大和沈没編」である。門田氏は大和の乗組員に最後の休暇が与えられ、里帰りするシーンをこう書いている(文中敬称略)。
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レイテ戦(昭和19年10月23~25日)のあと、傷ついた大和は母港・呉に戻った。レイテ戦を生き抜いた兵たちに最後の休暇が与えられたのは、この時だ。
すでに帝国海軍は事実上、壊滅状態で、さらにレイテ戦に敗れたことによって南方の重油は完全にストップしていた。もはや、兵たちは、その先に「死」しかない状態を迎えていた。
当時、十七歳の戸田文男(84)は昭和十九年十二月、三日間の休暇を得て、故郷の愛知県南設楽郡東郷村(現在は新城市)に帰った。戸田は第二主砲塔の砲員だ。それは、間もなく自分が戦死することを伝えにいく残酷な帰郷でもあった。
「もう、電報を打つ時間もなくてね。汽車に飛び乗って帰っていきました。家に着いたのは午後四時頃かな。畑仕事をする母親の姿が目に飛び込んで来てね。“おっかさーん!”って呼んだら、おふくろがびくっとしたように声に気がついてね。“文男っ! 文男か!”って叫びましたよ」
母は畑に鍬を放り出したまま、わが子に駆け寄り、何度も息子に頬擦りをした。
「親父は大工で、この時、泊まりがけの仕事に出ていてすぐに電報を打ちましたが、私は一日しかおれませんから、間に合いませんでした。おふくろは何度も“明日帰るの?”って言うんです。そしたらもう、おふくろは離れない。便所へいくにも、お風呂へ入るにも、私から離れない。寝るのも添い寝ですよ。兄弟がおっても、私にぴったりくっついたままでした」
その晩、戸田の大好きなお汁粉を母は出してくれた。
「砂糖のないあの時代に、どっかで調達したんだと思います。こんなに子供のことを見とるんかなあと思ってねえ。妹に聞いたら、おふくろは、お百度を踏んどる、と。朝、この寒い日にも、氏神さまの鳥居から拝殿まで、百回もまわるんだそうです、毎日、毎日……。それを聞いて、本当に、言葉がなかったね」
ありがたく、もったいないような休暇は、あっという間に過ぎた。戸田は家を出る時、自分がもう生きては帰れないことを母に告げなければならなかった。意を決して戸田はこう言った。
「おっかさん、今度はとても駄目だで。諦めておくれん(諦めておくれ)」
と。母もとうにそのことはわかっていただろう。村に次々と帰ってくる“英霊”の数を見れば、わかるはずだ。だが、たとえ頭でわかってはいても、それがわが子になるとは、考えられなかったに違いない。母は無言だった。
「海軍は沈んじゃうから……骨は帰らんで」
戸田は、そう続けた。
「残してある髪の毛でお弔いをしておくれん」
戸田は、その時の母の表情を七十年近く経った今も忘れることはできない。
「おふくろは、唇をクッと噛みしめてね。返事はなかったですよ。その時に私、まだ十七歳でしょう。こっちも、それ以上は何も言えんかった。おふくろはその時、もう駅まで私をよう送らなかったですよ。これが最後になることがお互いわかっているから、もう、おふくろには(見送りは)無理だったね……」
大和の乗組員は、こうして親きょうだい、そして故郷に別れを告げていった。
※週刊ポスト2012年5月4・11日号