【書評】『帝の毒薬』(永瀬隼介/朝日新聞出版/2415円)
【評者】山内昌之(明治大学特任教授)
終戦直後に起きた帝銀事件は、松本清張が推理したように、元関東軍防疫給水部つまり石井四郎軍医中将の率いた731部隊関係者の仕業という説が今でも消えない。服用後も時間がやや経ってから死ぬ青酸ニトリールは、素人それも犯人に擬せられた画家の手に負えるものではない。いまでも謎の多い帝銀事件の背後に何があったのだろうか。
小説ながら、満州の魔都ハルピンでの新聞記者と倉田部隊(石井部隊がモデル)の下級兵士との出会いからスリルに充ちた物語がめまぐるしく展開する。主人公の兵士羽生は、戦後に警視庁刑事として帝銀事件の捜査に関わるが、陸軍中野学校を出た諜報将校片岡も満州から帰国後にソ連と手を組んで、米国の保護下に入る倉田らの軍医たちと対立する。
ハルピンでの生体実験の模様や、石井を彷彿させる倉田軍医中将の横顔などはリアリティに富む。倉田の狂信的な皇国主義者ぶりや、名誉欲から性欲まで尽きない俗物ぶりもよく描かれる。何よりも、帝銀支店で毒薬を冷静かつ事務的に飲ませる犯人の手際の良さと落ち着きが筆者のペンを通して自然に伝わってくるのは不気味なほどだ。
戦後に民主警察として再発足する警視庁のなかに身を隠した特高(思想警察官)の公安警察と、帝銀事件の真相を証拠から探ろうとする刑事警察との葛藤もたいへん興味深い。
敗戦後の上野や日比谷を舞台とした日本人のあさましさと生きる意欲、進駐軍の強欲さと敗戦国民への侮蔑なども見てきたかのように精緻である。圧巻は、松濤の隠れ家で起った米国とソ連の秘密諜報員との銃撃戦や、市民デモがたくみに皇居前に誘導されてメーデー事件として知られる一種の“内戦”が起きるくだりであろう。
真相が未解明の歴史的事件のいくつかを小説仕立てで扱いながら、架空の人物によってサスペンスの靄を次第に晴らし異なる事件や人物を1つの線につなげる手法は見事である。
※週刊ポスト2012年5月18日号