「子供のころ、縄文時代の土器を博物館で見て、驚いたんです。こんな大きいものが土の中からでてくるんだと。しかも、いまから数千年前のものですよ」
考古学に興味をもったきっかけを目をキラキラさせながら話す長澤宏昌さんは、山梨にある日蓮宗鵜飼山遠妙寺の住職。そしてその務めの傍ら大学の教壇にも立つ、現役の考古学者でもある。
近著『散骨は、すべきでない -埋葬の歴史から-』(講談社ビジネスパートナーズ)では、僧侶の立場から、軽視・粗略にされつつある埋葬の意義を説く。また、近年の葬式仏教と呼ばれる寺や僧侶に対する批判にも答えた。
その長澤さんがいま憂いているのは、巷の散骨ブームだ。散骨とは、遺体を火葬した後の骨を粉末状にし、海や山などで撒く葬送行為のことをいい、日本では法的には問題がないとされている。
長澤さんのお寺でも散骨を希望して寺を離れた人がいたという。長澤さんはこういった現状に警鐘を鳴らす。
「最近、お墓は不要だと訴える書籍が相次いで出版され、経済的負担を理由に散骨をすすめたり、お布施やお金のかかる戒名が必要な仏教のやり方を葬式仏教として揶揄したりする風潮があります。
しかし、お寺批判とお墓不要論は別の問題です。もちろん、お寺が反省すべき点はありますが、そういったお墓を不要とする根拠の多くは、歴史的経緯をきちんと検証していないケースがほとんどなのです。
元々私は考古学が専門ですから、埋葬の歴史をひもとき、なぜお墓がわれわれにとって必要か提示したかったんです。だから自費出版という形でこの本を執筆しました」
しかし、墓は不要だという人の中にも、同じく歴史的経緯を理由に墓を否定する人がいる。曰く、仏教はそもそも葬儀・埋葬とは無縁だったが、江戸時代の檀家制度で初めて寺が葬儀を行うようになり、戦後の農地解放などにより、収入のなくなったお寺が葬式・仏事に傾斜していったとか。
しかし長澤さんは、「江戸時代よりずっと昔の古墳時代から、仏教と埋葬・供養は強いつながりを持ってきたんです」と反論する。
「仏教の伝来は古墳時代(3世紀半ば過ぎから7世紀末ごろまで)にあたる538年ごろといわれています。そして、遅くとも7世紀初頭に古墳に納められた石棺に、仏教の印である蓮華紋が刻まれているのです。亡くなった本人もしくは埋葬行為を行った人間が仏教の強烈な信奉者で、埋葬に仏教が深くかかわっていたことは間違いないですね」
そしてそもそも埋葬は、人間の定義そのものにかかわる問題だという。
「言葉を発したり、道具を使ったりというのは人間だけの特性ではありません。音声によるコミュニケーションはイルカも行いますし、チンパンジーは堅い木の実を食べたいときに平たい石の上にのせて上から石を落として割ります。完全に道具を使っているんですよ。では何が人間を人間たらしめるのかといえば、例えば絵画や音楽など、自分の心の内を形に表すものです。それができるのは人間だけ。そしてその最たるものが埋葬なんです」
※女性セブン2012年6月21日号