まんがやアニメ、映画やドラマを、料理研究家の福田里香氏(50)はつい〈フード目線〉で見てしまう体質の持ち主だ。現在はお菓子好きが高じてお菓子研究家を本業とする一方、まんが通としても知られ、2007年『まんがキッチン』はそんな彼女のまんが愛とフード愛が結実した画期的レシピ&インタビュー集だった。
初エッセイ集『ゴロツキはいつも食卓を襲う』では、各種映像表現における食関係の〈お約束〉を〈ステレオタイプフード50〉として法則化、オノ・ナツメ氏のクールな挿画ともども、評判を呼んでいる。本書が提唱する〈フード理論〉三原則は以下の通り。
〈1 善人は、フードをおいしそうに食べる〉
〈2 正体不明者は、フードを食べない〉
〈3 悪人は、フードを粗末に扱う〉
言われてみればなるほどその通りだが、それでいて具体的作品名はあえて限定しないところが実は本書の肝。〈メディア化する社会において、イメージから受け取る情報量はますます膨大になりつつある〉〈網の目に残った食べ物の情景には、それぞれ何かしらの意味や価値があるのだ〉と。世にまんが評論の切り口は数あれど、フード理論なる着目点は福田氏オリジナル。その愛に満ちた分析には当の漫画家たちが「なるほど!」と一目置くほどだ。福田氏はこう語る。
「特に一部の漫画家さんは、17世紀のフランドル絵画を思わせるような高度なフード表現を無意識に会得されていたりしますからね。例えば宗教画の中でキリストの隣にあるパンとワインはその肉と血を意味し、やがて時代が下ってくると単にパンとワインを描いた静物画の中に人は神の存在を読み取るようになった。そうした絵画における寓意や暗喩の手法を私は大学の美術史の授業で学び、ふと気付くと映画やまんがでも同じことが言えたんです」
そもそも本書執筆のきっかけも、ネット等で反響を呼んだ映画『七人の侍』のフード理論的分析にあり、食うべきか食わざるべきか、それが大問題なのだと。
「『水戸黄門』でもラストで人々がひれ伏すのは印籠の威力ではなく、庶民がふるまう粗末な食事を黄門様が“うまいうまい”と食べてきたから。普通はそんなもの、天下の副将軍は食べないわけです。でも黄門様は食べる=イイ人、箱の中のお菓子よりその下の小判に興味がある役人=悪い人という構図があの勧善懲悪劇を下支えしている。他にも寅さんや“渡鬼”など長く愛される作品ほど鉄板級のお約束がテンコ盛りです」
以下、50項に亘る典型的フード表現を一部紹介すると、〈ヤケ酒を飲むと、意外なひとと同じベッドで目覚める〉〈動物に餌を与えるひとは善人だ〉〈男前が水道の蛇口から、直接水を飲んでいると、かわいこちゃんが話しかけてくる〉〈カーチェイスで、はね飛ばされるのは、いつも果物屋〉〈マスターが放ったグラスはカウンターをすべり、必ず男の掌にぴたりと収まる〉……。
そんな「どこで見たかは忘れたが、何かで見た気がする風景」が、今ではベタすぎることを逆手に取って笑いすら取れる「お約束」となりえた背景を分析しつつ、本書はむしろその記憶の曖昧さにこそ注目する。
例えば第16項に〈朝、「遅刻、遅刻……」と呟きながら、少女が食パンをくわえて走ると、転校生のアイツとドンッとぶつかり、恋が芽生える〉とある〈食パン少女〉は青春系「あるあるネタ」の古典的アイコンだ。
が、初出は不明で、何とか探し出せたのは『サルでも描けるまんが教室』(1989年)のみ。このとき既に〈ありがちなパターン〉の一例とされていた食パン少女は、後年『新世紀エヴァンゲリオン』にあえて採用されるなどして社会的定着を見た、〈核たる原形を持たない精緻な幻影〉ではないかと。
「つまり誰の記憶かも実は定かではない“実体のない経験”が一種の集団的記憶として共有されているわけで、それって面白い半面、怖いでしょう? 20世紀は映像の世紀と言われますが、特に食欲は性欲を代替できるほど刺激が強く、二次元に刻まれたそれこそ〈絵に描いた餅〉が及ぼす影響に私は興味があるんです」
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2012年7月6日号