東京・渋谷の円山町ラブホ街。渋谷ホテル旅館組合「60周年記念誌」によれば、昭和35年頃より、岐阜県のダム建設に伴い、水没住民が補償金で上京、旅館業を始める。その成功談に血縁、地縁でさらに人が集まり、渋谷、新宿、蒲田などに昭和40年代の前半までに相次いで開業された、とある。作家の山藤章一郎氏が報告する。
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標高800メートル。岐阜県高山市荘川は、飛騨山系の深い岳に囲われた村である。
富山湾に注ぐ荘川がつらぬく。この川を堰き止めて、総貯水量、日本第4位の〈御母衣(みぼろ)ダム〉ができた。戦後の経済成長に欠かせぬ〈水力発電〉だった。
水没する355戸、1547人が「絶対反対」〈死守会〉を結成した。だが、〈株・電源開発〉は協力金20万円で切り崩し工作を展開した。ラーメン17円。公務員初任給7650円の時代である。
4年後、両者は誓約書『幸福の覚書』を交わし、激しい闘争は焉んだ。縁者、地縁で固く結ばれていた各戸、各人は望んだ集団移住もかなわず、ちりぢりとなった。
〈東電株主総会〉のあった翌々日、福島第一原発地元の双葉町民231人が暮らす埼玉県の高校を、同社会長社長が初めて訪ねた。怒声が飛んだ。「いまごろ来るとはなにごとだ。補償しろ」
双葉町民のほぼ半数の3411人が、福島県外に避難している。北海道17人……沖縄8人。隣りの大熊町民も同様に離散した。
もはや、かつてと同じように故郷で暮らせる望みはない。昔、水力、今、原子力、国家のエネルギー政策の痛烈な犠牲である。
荘川村では、紐帯をきれぎれにされた人々のうち13世帯が東京に転出し、渋谷区円山町に旅館、飲食店を開いた。
渋谷ホテル旅館組合「60周年記念誌」はいう。
「昭和35年頃より、岐阜県の御母衣ダム建設に伴い、水没する住民のかたがたのなかに補償金で上京、旅館業を始めた方があり、その成功談に血縁、地縁でさらに」「渋谷、新宿、蒲田などに昭和40年代の前半までに相次いで開業されました」
また、『大分大学経済論集』「御母衣ダムの水没部落 現地調査報告」より。
「昔と同じように他の場所で農業をつづけた者は、半分に満たず、それを越す数の者がサービス業に転じた」「山村で農業に従事し、客扱いに慣れないこれらの人々がこのようなサービス業に果たして成功し得るであろうか、危惧なきを得ない」「全世帯、文字通り雲散霧消してしまった」
東京のラブホテルのさきがけである。奥飛騨のこの深い山村の人々の功が大きい。
※週刊ポスト2012年7月20・27日号