国際関係論では「危険」を「リスク(risk)」と「デインジャー(danger)」に使い分ける。リスクというのは「マネージ」したり、「コントロール」したり、「ヘッジ」したりできる危険のことである。デインジャーというのは、そういう手立てがまったく効かない種類の危険のことである。思想家の内田樹氏は原発事故対応においてもこの2つを使い分けるべきと指摘する。
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原発事故はデインジャーである。いつ、どういう様態で起きて、どのような被害をもたらすかについて予測が立たない。それについて備えをするというのは、事故が起きたときにどうやって人命を守るかという「対症的」措置のことである。
住民の避難経路を確保し、収容施設を設置し、事故対策のための施設や機材を全原発に配備しておくということ、それができる最大限である(それでもデインジャーには対応できない)。「予防できる」危険はデインジャーとは呼ばない。
原発が停止したままでは電力が不足するというのはリスクである。停電が頻発する、電力料金が高騰する、医療機関で十分なケアができなくなる、製造業が生産拠点を海外に移す、雇用機会が失われる……というのが想定されるリスクのシナリオである。どれも平たく言えば「金の話」であり、「金で解決できる話」である。ただ、金を出したくない人にとっては、デインジャーよりも大事な案件である。
「命より金の方が大事だ」というのが、装飾を剥ぎ取って言えば、再稼働を進めた人々のロジックである。あまりに長きにわたって平和と繁栄になじんだせいで、年収を増やすことが生きる目的であり、経済競争に勝つことが国家目的だと信じるに至った国民の選択したロジックである。
私は「必ず原発事故は起きる」と言っているわけではない。この先永遠に事故はないかもしれない。
でも、ひとたび起きたときに日本がこうむる被害は国土の汚染や国民の健康被害にとどまらない。「デインジャーというものがこの世にありうることを知らない国民」、つまり、「幼児」として(もっと遠慮なく言えば、「バカ」として)国際社会から遇されるということである。
私は国民がまるごと「バカ」だとみなされることがもたらす災厄は電気料金や製品単価によってトレードオフされるようなものではないだろうと思う。
野田首相と原発再稼働推進派の人々は、目先の銭金を失うことを恐れて、「デインジャーなどというものは存在しない(するかもしれないけれど、われわれの身にはたぶん訪れないだろう)」という楽観的希望に国運を賭けた。これほどに視野の狭い人々に、これから先の混迷を深めるはずの国際社会の舵取りを任せることに私はどうしても同意できないのである。
※SAPIO2012年8月1・8日号