ネット上で発生し、一部は街頭に出て活動する「ウヨク」(ネット右翼=ネトウヨ)たちを、“本家”の「右翼」はどう見ているのか。民族派団体、一水会顧問の鈴木邦男氏は、「かつての私を見ているようだ」とした上で、「しかし彼らには、考えの異なる敵とぶつかり、正面から討論することにもっと挑んでほしい」と苦言を呈す。以下、鈴木氏の主張である。
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ネット右翼がネット上で、相手を匿名で攻撃するのは卑怯であり、それは主張でも何でもない。しかし、「主権回復を目指す会」の西村修平氏や「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の桜井誠氏らが登場した時は、顔や名前を出して堂々と活動しているという意味で、評価できた。また、当初は彼らの運動方針ややり方を、いくつかの点で“うまい”とも思った。
例えば、自らを「右翼」ではなく、「市民運動」だと言う。その上で、ネットを利用して賛同者を募り、一般の人が入りやすい状況を作っている。また、街宣活動をする際は事前に警察と打ち合わせをして、捕まらないような対策を取っていると聞いている。それまで運動に関わったことのない人でも入っていけるような間口の広さから、“右翼版べ平連”のようにも感じた。
ただ、彼らの行なう街宣やデモを目にすると、首を捻りたくなることが多い。
例えば、映画「靖国 YASUKUNI」(2008年)上映への抗議活動では、右翼の中でも「彼らはよくやっている」と評価する声が聞かれた。しかし、不法滞在を理由に強制送還を迫られていたフィリピン人一家に対し、当時中学生だった娘の通う中学校の前で「日本から叩き出せ!」と叫ぶデモ(2009年)や、「ザ・コーヴ」上映映画館の支配人宅まで押しかけて玄関前で街宣を行ない(2010年)、その様子を動画で公開したことなどを見るにつけ、「これは運動ではなく弱い者いじめだ」と、右翼の多くは否定的になった。
彼らが街宣やデモで叫ぶ「朝鮮人は国に帰れ」という嫌がらせや汚い罵りは聞くに堪えない。他ならぬ私も、彼らの街宣現場で話し合いを申し入れたら、「朝鮮人! 帰れ!」と攻撃された。人の心に潜む差別意識や排外意識を露骨に出して罵倒する姿を見せられると、これが本当に「国を守る」ことなのだろうか、と疑問に思う。
映画監督で作家の森達也氏は「主語が複数になると、述語が暴走する」と言った。まさに至言だと思う。例えば一人の人間が「私はこう思う」と言うなら、発言には責任が伴い、間違った時にはそれを認めて反省することができる。しかし、「私」が「我々」になり、数の力でものを言い始めると、誤りを認めることは容易でなくなり、「我々」は暴走する危険性を持つ。
私自身もそうだった。学生時代に運動をやっていた当時は、自分と同じ考えを持つ人が10人から100人、1000人から1万人に増えていけば世の中が良くなると単純に信じていた。それこそ、「反対する者は日本から追い出せ」と言わんばかりの勢いだった。私もかつて、彼らと同じような物言いをしたことは否定できない。
しかし、私はテレビや雑誌に出て発言し、討論する場を与えられたことで、責任を持った冷静な発言を心がけるようになった。そうでなければ、「暴走する右翼」で終わっていたかもしれない。
「直接行動で思想を表わすのが右翼だ。お前らは言論メディアに囲い込まれたからダメになったのだ」と批判する右翼もいるが、私は言論で戦うべきだと思う。
しかし、彼らは街宣を離れた討論の場には出て来ない。2年ほど前、「ザ・コーヴ」の上映をめぐり、「ニコニコ動画」の生放送で西村氏らと対談する企画が持ち上がったが、直前になってキャンセルされた。「ニコ生」は私にとっても“アウェー”だが、西村氏らはよほど「敵の土俵」には上がりたくないらしい。
結局、彼らは集団で街宣し、言いたいことを言うスタイルを崩さない。自分たちが必ず勝てる“ホーム”でしか戦わないのだ。
※SAPIO2012年8月22・29日号