8月15日は71回目の終戦記念日である。今春、『太平洋戦争 最後の証言』三部作を完結させたノンフィクション作家の門田隆将氏は、100人を優に超える老兵たちの声に耳を傾け続けた。人生の最晩年を迎えた彼らが日本に遺したかったものとは何か。門田氏が振り返る。
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私は、艦と共に沈む時、母親の顔や、自分の葬儀のありさまを思い浮かべた水兵たちの話を数多く聞いた。そうまでして守ろうとした日本のいまの姿を憂う声は実に多かった。
多くの若者が、世の中のなんの楽しみも知らないまま死んでいった時代。彼ら戦争世代は、甘えや癒しの中に逃げ込み、権利ばかりを主張するようになった今の日本人をどう見ているのか。
当時の若者が持っていた“諦観”を語るのは、人間特攻兵器「桜花」の生き残りである松林重雄さん(九一)だ。“生還が期し難い特殊兵器”である桜花に志願して、厳しい訓練をおこなった一人だ。
「私は、進んで志願したんだよ。あの頃、戦争に負けるってのは、もうわかっていました。われわれは、家族と、当時はまだ独身だから彼女とかね、そういうもののために我々がやればいくらかいいだろうと、志願するんでね。天皇陛下と言う人もいるけど、それとは違っていたなあ。あとは、卑怯者と言われたくないという気持ちもあったね。あの頃の男には、やっぱり“男ならやらないかん”という思いがあったからね。そりゃ当時の教育ももちろんありますよ。まあ、生まれた時が悪かった、と諦めていたこともあったと思う」
それこそが当時の若者の“諦観”ではなかっただろうか。諦観とは、仏教用語で、人生の真相や仕組みを見抜くことを表わし、人生に対して確かな洞察力をもって生きることを意味する。自分たちの短い人生に諦観をもって生きた大正世代は、「命」そのものに対する愛惜の情を持っていたのではないだろうか。
彼らが人生の最晩年を迎えて、今の日本に静かな怒りを抱いていることを私は大正世代の話を伺いながら思った。松林さんもこう語った。
「やっぱり怒りを覚えますよ。今のざまは何だ、とね。こんなはずじゃなかった。死んだ奴が気の毒だと、どうしても思ってしまいます。私は生き残っちゃったからね、死んだ奴に、本当に申し訳ない、と思います。でも、もう自分には何もできませんが……」
戦中戦後、“前進”をやめなかった大正世代。自国の領土や国民の生命財産を守ることすら覚束ない国になりつつある今、彼ら“他人のために生きた世代”の遺言に是非、耳を傾けて欲しいと思う。
※週刊ポスト2012年8月17・24日号