【書評】『辞書の鬼 明治人・入江祝衛』(井上太郎/春秋社/2100円)
【評者】池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)
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入江祝衛(一八六六~一九二九)を知る人はまずいないだろう。埼玉の師範学校を出て、小学校の教師をしながら英語を勉強。明治半ばに辞典の編纂を志し、超人的な努力をして『註解和英新辞典』『詳解英和辞典』『英文法辞典』などを世に出した。最後の『モダーン和英辞典』に取りかかったのは大正五年(一九一六)、はじめの七年間をカードの作成に費し、総数百万枚をこえた。「どこにもない辞書を出そうという執念だった」
組版も進んでいたところで、関東大震災が襲来、活字もろとも焼けてしまった。それでもへこたれず、「毎朝三時に起き、昼食は全廃し、夏の長い日といえども、数分間の休息もなさず、一生懸命に従事しましたが、いかにも手数が掛かって中々進行いたしません」。
無理がたたって吐血、絶対安静をいわれたが、「精神さえ確かにして居れば決して死ぬものでなしと信じまして……」。明治という近代日本の青春期が生み出した美しい人間類型だろう。
これと思い定めると一途に、ひたむきに努力をかさねる。ホンモノの英語の発音を知りたいばかりに、埼玉の小学校の授業のかたわら、銀座の英語夜学校まで往復56キロを走って通った。あまり集中して聴いていたので肩をこらし、歯痛を起こし、歯が抜けてしまった。一冊の辞典を手に入れたいばかりにふとんまで売り払い、友人の寝床で暮らしていた。
ほんの一行、さりげなく触れてあるのみだが、この「明治人」は著者の親族にあたるらしい。自分も文筆にたずさわる身になって調べ始めた。モーツァルトの研究で半生を送ったのち、齢八十をこえて風狂な「辞書の鬼」の一代記を書き上げた。さまざまな思いがあったろうに、感情めいたことは一切おさえ、当人自筆の「苦心談」と時代の資料だけにかぎった。
清潔で即物的な描写を通して、埋もれた人生が甦ってくる。壮絶な努力が、どこかユーモラスな印象を与えるのは、夢にいそしむなかで汗くさい世俗の尺度をこえていたせいである。
※週刊ポスト2012年8月31日号