領土を守る行為とは、その土地に日の丸を掲げ、「ここは日本領だ」と叫ぶことだけではない。むしろ、名もなき市井の人々がその土地に築いてきた生活の営みこそ、「日本領土」たる揺るぎなき根拠である。ここでは竹島をめぐるエピソードを紹介しよう。
韓国が竹島を不法占拠して以降、韓国側は竹島近海で操業する日本漁船に対して、銃撃や拿捕を繰り返すようになった。日韓漁業協議会の調べでは、1965年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上った。
1953年9月に拿捕された第28海鳳丸の久保田伴良・船長は帰国後、国会の小委員会で壮絶な投獄体験を証言している。
済州島周辺を航行中、韓国海軍の巡航艇に大砲2発を発砲され拿捕された海鳳丸だったが、船長は小銃を突きつけられた状態で軍幹部に反論し、警察尋問では拳銃で脅されながら自分の証言と調書の違いを主張するなど、抵抗を示した。彼は2か月以上勾留された留置場の様子をこう述べた。
「留置場は1部屋4畳半くらいで多いときは1部屋10人もおり、超満員になって寝ることもできなかった。食事は丸麦1合くらいを1日2食、おかずは大根の葉っぱの塩漬を毎日毎日73日間も食わされた」
裁判で罰金刑を受けた船長は、「今後は国際裁判で正当な解決をしてもらうことにして一同涙をのんで翌日判決を承認して」帰国した。
船長は国会で、「この事件について考えさせられますことは、我々第一線に働いている漁船船員に対してまだ政府は何ら安心して働けるような保護対策のないことであります」と訴えている。
※週刊ポスト2012年9月7日号