今はなき昭和の野球場をたどるこのコーナー。今回は、伝説の野武士軍団・西鉄ライオンズが本拠地を構えた平和台球場の思い出を、当時の4番バッター・中西太氏が振り返る。中西氏を始め、豊田、稲尾、仰木など、数多くのサムライが所属したこのチーム。中西氏が当時の思い出をこう語る。
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平和台球場には熱心なファンが多くてね。スタンドにはいつもヤジが飛び交っていた。僕は四国・香川県生まれ。当初は九州弁がわからなかったが、そのうち熊本弁、博多弁と聞き分けることができるようになった。炭鉱や製鉄所、造船所で働く気性の荒い人が多かったので、「打たんと飯ば食わさんぞ」なんてヤジられたもんです。
平和台は客席とグラウンドがぐんと近く、フェンスも低かった。そのため、何かあればすぐにファンがグラウンドになだれ込んで来た。試合に負けても、勝ってもね。足を運んでくれるファンと、選手が一体となった球場だったね。
僕の入団当時は(1952年)、西鉄はまだまだ弱小球団で、南海や大毎が強かった時代。豊田(泰光)や稲尾(和久)らが入団して強くなるまで、福岡市はなかなかプロ野球用に球場を改装する費用を出さなかった。だから観客スタンドもしばらく土盛りの芝生席でした。それでもグラウンドは、水はけのよい黒土の素晴らしいものでしたよ。ラッキーゾーンもなく、当時としては広い球場でした。
当初はナイター設備がなく、「平和台事件(※)」をきっかけに設置された。ただ、その光に寄せられた海鳥の群れが球場上空に飛んできて、追い払うために試合中に照明を落として、試合が中断されることもあったね。
僕はここで「バックスクリーンを越える160メートル弾」を打ったといわれています。他人事のようなのは、僕自身も本当の距離を知らないんだ、実は(笑い)。ともかく、博多の熱いファンに後押しされてプレーができた球場でした。
(※)ナイター設備がなかった頃、日没ノーゲームに持ち込もうとした毎日の遅延行為にファンが激高。暴徒と化してグラウンドになだれ込み、事態収拾のために機動隊が出動した。
※週刊ポスト2012年9月14日号