経営不振により、現在、台湾企業・鴻海(ホンハイ)精密工業との出資交渉を行なっているシャープは、「七転び八起きの男」と言われた早川徳次氏がその礎を築き上げた。後にシャープとなる会社を18歳でスタートさせた早川氏の成功までの道程を、作家の山藤章一郎氏がたどる。
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江東区新大橋(旧・本所区松井町)は、地下鉄・森下駅から徒歩2分ほどの位置にある。 狭い区画に、工場とマンションが並立し、寺、神社、金属加工場、印刷所、児童公園が点在する。いまからちょうど100年前の9月15日、18歳の少年・早川徳次は、この区画に間口1間半、奥行き2間の家を借り受け、土間に2台のプレス機を据えた。
徳次の父親は、肥料を集める〈わただる屋〉だった。魚のはらわたを樽に集める仕事、〈腸樽〉と書く。貧苦の底にあえぐ環境で、2歳で養子に出された先の継母に徳次はことごとく辛く当たられた。近所に住む盲目のお婆さん・井上さんが哀れみ、錺屋(かざりや)の住み込みを世話してくれた。8歳だった。
錺屋は、かんざし、金具などの装飾品を作る職人の店である。徳次が終生、盲人など障害を持つ者に福祉の力を注いだのは、井上婆さんと、奉公先の坂田さんへの報恩心が篤かったからである。
厳しい奉公暮らしだったが、のちのちまでふたりへの感謝を繰り返し口にした。雪の日、10歳の徳次は2里の道を足袋も履かずに歩き、両国橋で足を滑らせ、橋下に落ちる。腹も減っている。製品の材料となる銅や錫が肩に食い込んでいる。
このままほっぽり出して逃げようか。だが、養家は極貧のうえ、継母は底意地が悪い。「どんな目に遭わされるか、怖い。辛いけれど、やはり三度の飯を食わせてくれる主人の家の方がいい。辛抱しよう」と踏みとどまる。『私の考え方』(早川徳次 浪速社)より。
ほぼ10年の奉公だった。腕を磨いた徳次は帯革(洋服ズボンのベルト)のバックルをつくった。それまでのものと違い穴が開いていない。革をスライドさせて止める。バックルは当時〈尾錠〉と呼んでいた。徳次の尾錠で〈徳尾錠〉。
新大橋の2台のプレス機はこれを売った資金に依った。のちにシャープとなる〈早川金属工業研究所〉誕生の地である。〈発祥の地〉の碑でも立っていないか。9月初旬、残暑の盛り、首都高向島線の高架に近いその一画を歩いた。首から輪袈裟を下げた僧が通りがかった。
「ここがシャープの、ですか。知りませんね。聞いたことないです」
碑もない。跡もない。町民の誰も知らないのか。〈シャープ100年史〉も、「新大橋に小さな民家を借り」と記すだけで、地番も判然としない。
※週刊ポスト2012年9月21・28日号