経済成長にブレーキがかかり、経済格差が拡大するなど社会の歪みが極限に達している中国の姿は、18世紀に未曾有の繁栄を遂げながら、様々な矛盾が噴出して滅亡した清朝(1636~1912)の末期と似てきた──こう指摘するのは、近代中国史が専門の岡本隆司・京都府立大学准教授だ。
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清朝はもともと満洲族が遼東地方に打ち立てた政権である。明朝滅亡後、北京に入って中国の支配者となった。40年かけて敵対勢力を一掃。しかるのちに明朝時代の貿易制限を解除した。それ以来、貿易が盛んになり、中国社会はデフレから好景気に転じる。
繁栄がピークに達したのは18世紀の乾隆帝の治世だった。インフレ好況はさらに上昇軌道を描き、国力は飛躍的に増大する。この時期の中国は世界のGDPの3分の1を占めていたという話もある。あくまで推計にすぎないが、世界有数の経済規模を誇っていたのは間違いない。
一方で、現在の中国と同様に、発展の裏で格差が拡大していった。
まず空前の好況で人口が激増した。17世紀には1億人前後だったものが、18世紀に入ると3億人に達した。すると既存の耕地で収穫できる作物だけで急増した人口を養うのは不可能となり、あぶれた人々は未開の地であった江西、湖北、湖南、四川の山地に移住。彼らは粗末なバラックに住んで山林を伐採し、木材を生産した。しかしそれだけで生活の糧を得るのは難しく、煙草などの商品作物を栽培しながら、トウモロコシやサツマイモで飢えをしのぐしかなかった。
経済発展の陰で社会の歪みが顕在化していく。一番目につきやすいのが、貧富の格差である。貿易や都市部の商売で成功した者や大地主が巨万の富を得る一方、山地に移住した人たちに象徴される負け組はとことん落ちていった。18世紀の清朝はそういう時代であった。
かつて毛沢東は、この清朝時代以来の格差社会を是正するため、計画経済を取り入れ、社会全体を統制した。その結果、格差は是正されたものの、国民は皆貧しくなってしまった。78年に今度は鄧小平が改革開放のスローガンを掲げ、市場経済に舵を切った。ここから驚異の経済成長が始まり、2010年には世界第2位の経済大国となったものの、清朝時代の格差社会に戻ってしまった。歴史の皮肉というしかない。
※SAPIO2012年9月19日号