妻に先立たれた男は、妻への追慕を抱えながら、その後どう生きるのか――。作家の山藤章一郎氏が、妻を亡くしたばかりの元商社サラリーマンに出会った。
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乳がんから脳や骨に転移した妻を亡くしたばかりの、元商社サラリーマン・エビ川氏(60歳・仮名)に手帳を見せてもらった。「妻が死んで頭がぼうっとして、不安ばっかりで、とにかく備忘録というか手帳になんでも書きつけたんです」
小さな手帳にびっしりと、天気、起床時間、食べたもの、水道、光熱費、読んだ本、見た映画まで、書き刻んでいる。「いちばんつらいのが夕方なんです」
9月11日4時目覚め。以下、時間と項目が列記されているが、分かりやすく説明する。
4時に目が覚めたら、本を読む。毎朝5時半に鳴る裏の寺の鐘を合図に起きる。汗かきだから、夕べの湯を追い炊きして朝風呂に入る。6時半、洗濯機をまわす。パジャマ、下着を洗う。これは毎朝。シーツ、タオルケットは週に1回洗い、布団は週2で干す。その間に犬の散歩に出る。
7時半、洗濯ものを干す。8時朝食。いつもはトーストとヨーグルト、コーヒー。だがこの日は、白ごはんを解凍、サバ味噌焼き、豆腐の吸い物。8時半、NHKを見る。それから10時過ぎまで、また本を読む、その後、銀行、郵便局など、用事を済ませに外出する。
「公共料金はこの手帳に控えておき、いつ、どの口座から引き落とされるか確認します。銀行が5つあるので混乱しないように。妻名義のものは徐々になくしてます」
駅まで徒歩15分。週に1度のスーパーへの買い出し以外は車に乗らない。スーパーでは1度に5000円前後を買う。生協にも入っていて、野菜、冷凍食品、調味料、洗剤など、翌週配達してくれる。
しかし、今日は9時50分に、電車で20分の町へ、亡妻の主治医に商品券を持ってお礼に行く。11時半に戻り、12時に、お中元でもらった半田めんに、ミョウガを刻み、小ネギをちらした。2日前に煮たかぼちゃをつまむ。
1時から3時までまたまた読書。「ありすぎる時間を、本でも読んでつぶすしかない」半月ほどのあいだに読んだ本。駅前の〈三省堂〉で買ったり、携帯から〈アマゾン〉に申し込んだり、図書館で借りたり。
『カデナ』(池澤夏樹) 『冥土めぐり』(鹿島田真希) 『寝盗られ宗介』(つかこうへい) 『泥鰌庵閑話』(滝田ゆう) 『人間仮免中』(卯月妙子) 『それからの海舟』(半藤一利) 『柔らかな犀の角』(山崎努)
妻を亡くした男の回想記も読んだ。『K』(三木卓)。 『妻と私』(江藤淳) 『愛妻記』(新藤兼人) 『いまも、君を想う』(川本三郎)
あとは『ハワイの歴史と文化』(中公新書)というのも面白かった。本は、書評や昔に買って積んでいたものから選ぶ。
駅前の10スクリーンほどあるシネコンに行く日もある。60歳になったので1000円。「高倉健さんの『あなたへ』を見ました。このときは朝早く。9時に行ってチケットを買い、ドトールで待って10時半の回に入った。完全に老人ホーム状態で。健さんが出てきたらおばさんが『はあ~やっぱりいいわね』って」
夕方5時になる。洗濯物を取り入れ、畳む。5時半、犬の散歩。夕方になると、エビ氏は、亡き妻の思い出に責めつけられて胸が苦しい。エビ氏、6時から夕飯の支度。
「人間、歳をとってもどこにいても、食が死ぬまで要諦です。自分でつくらなければ生きていけない。面倒くさがらずにやろうと決めました。それに、料理でもやってないと間がもちません。
妻の手伝いをしてたんです、元気なころ。煮物、炊き込み……野菜も水からゆでたり、お湯からゆでたり。それを思い出してやっています。米は3日にいちど機器で精米して2合炊き、完全に冷え切る前にラップにおにぎり型にくるんで冷凍保存する。今週は、まぐろ丼、卯の花をつくり、にんじん、ひじき、こんにゃく、油揚げを刻んで甘辛く煮ました」
この日は、豚肉しょうが焼き、ポテトサラダ、豆腐の味噌汁。350ミリリットルのビールをひと缶。つまみに、枝豆ととうもろこし少し。ビールで物足りないときは、バーボンの水割りかロック一杯を飲む。
NHKのニュースなど見ながら、だいたい8時半に食事を終える。片付けて、風呂。9時半、犬と一緒に2階の寝室にあがり、1時間ほど本を読んで10時半には完全に就寝する。
「時間がたっぷりあって、でもそこそこ忙しい。外に飲みに? サラリーマンの会話が隣りから聞こえてくる。そんなとこへ行きたくないし。仲間を募ってゴルフやボランティアをする気もない。精神的にいちばんつらいのが夕方なんですよ。寂しくて、夕日を見たくない。だから料理つくってごまかして、風呂に入ってさっと寝るようにしてるんです」
※週刊ポスト2012年10月12日号