将棋界には“死闘”と呼ぶに相応しい伝説の名勝負が数多く存在する。谷川浩司王将対羽生善治6冠(いずれも当時)との間で争われた第44期王将戦(1995年)もその1つ。ルポライターの高山武将氏が、当時の模様を綴る。
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青森県奥入瀬はまだ深い雪に覆われていた。1995年3月24日。十和田湖畔のホテルは、異様な熱気が充満していた。第44期王将戦七番勝負の最終局2日目。王将は谷川浩司。挑戦者は史上初の7冠制覇を目指す羽生善治。報道陣は150人を超え、大盤解説場は300人のファンで埋め尽くされた。
戦形は第2局から続く王道の矢倉。両者一歩も譲らず76手で千日手に。先後が入れ替った指し直し局も、40手目まで同一手順という異例の進行。お互いが相手の手を最善と認め合う最高峰の戦いが続く。先に手を変え未知の局面に持ち込んだ谷川は、難解な応酬が続く大激戦を111手で制する。最終手を指すとき「気持ちを落ち着かせるために」2分を費やした。
逆風の中で迎えたシリーズだった。このわずか3年前。7冠を夢見ていたのは谷川のほうだった。史上最年少の21歳で名人になり、「名人位を1年お預かりさせていただく」と名言を残した。誰よりも早く終盤の詰みをイメージし、一気に寄せる華麗な棋風は「光速流」と呼ばれ、棋界に衝撃を与えた。29歳と脂の乗った1991年度に史上4人目の4冠王となり、谷川時代の到来かと思われた矢先、8歳下の羽生が立ちはだかる。
1992年の竜王戦でフルセットの末、タイトルを奪われると、1994年の王座戦まで、羽生と争ったタイトル戦で7連敗。「羽生コンプレックス」の渦中にいた。
「意識過剰になって、自分の将棋を見失っていましたね。本来は自分の棋力を向上させ、対局で100%力を出すことが一番大事なんですけれども、どうしたら羽生さんに勝てるのか、ということばかり考えていた。このままずっと負け続けるのではないか、と……」
気持ちが前向きになれない。タイトル戦の挑戦者決定戦に勝っても、また羽生と戦うのかと思うと息苦しくなる。そこには、谷川にしか持てないある感情があった。
「嫉妬心、がありましたね。自分にないものが彼にはあると。私は終盤の寄せに絶対の自信があって逆転負けはあまり経験がなかったのですが、羽生さんには、こちらがリードしていても、読みにない手を指されてひっくり返されてしまう。
逆転負けは一番辛いんですよ。当時、羽生マジックと言われていましたが、実際は、優勢なときは単純に、劣勢のときは複雑に指していくことで逆転の可能性を探るという、勝負の心得を自然にやっていただけなんです。でも、終盤の自信が揺らいだ私は、羽生さんの指し手に疑心暗鬼に陥り、踏み込んでいけない。20代では自分が築いた信用で相手が勝手に転んでくれていたのが、逆に自分が転んでしまっていたんです」
将棋の勝負は「信用」が大きくものをいう。通常は悪手とされるような手でも、谷川が指せば、羽生が指せば、「何かある」と思わせる。勝負はその信用の奪い合いとも言える。時代を変えた光速流をさらに凌駕するような羽生マジックと、築き上げた信用失墜の恐怖に、谷川は怯えていた。
そんな意識が大きく変わったのは神の啓示だったのかも知れない。第1局に先勝した直後、阪神・淡路大震災で被災。当時暮らしていた神戸六甲アイランドのマンションの被害は大きくなかったが、一時避難を余儀なくされ、実家のお寺はほぼ全壊する。3日後には大阪で順位戦が控えていた。対局延期も考えられた状況下、20数キロの距離を車で10時間以上もかけて大阪に辿りつき、盤上に向かう。そのとき、不思議な感覚に覆われた。
「負けることが怖くなくなった、というんですかね……神戸は地獄のような状況なのに、大阪では普通に生活して対局が行われている。将棋を指せるのは何て幸せなことだろうと。普段は悲観的に考える形勢判断も、あの2ヶ月間は楽観的になっていた。命懸けで勝負に挑んでいましたが、負けても命をとられるわけではない、と」
羽生の7冠を阻止できた要因はそれだけだろうか。先に王手を賭けた第6局で、谷川は終盤のミスで大逆転負けを喫している。羽生への悪夢が蘇るような状況である。だが最終局を前に、自らを奮い立たせるようにこう思うのだ。
「こういう状況になったのは(羽生と)最もタイトル戦を戦ってきた自分に責任がある。もし、相手が自分じゃなければただ観ていることしかできない。もう、自分で決着をつけるしかない」
その決然たる覚悟こそ、真の勝因だったのだろう。本来ならこの勝利でスランプ脱出となるはずだった。だが直後の1995年度、26勝23敗とプロ入り最低の成績に落ち込む。タイトル挑戦さえできず、不調をかこった。
「これは言い訳になるんですが……震災直後は、対局することと元の生活に戻すことしか考えずに突っ走ってきたのが、一段落して現実を突きつけられたんです。被害が軽かったことに、罪悪感というか、申し訳ない気持ちにとらわれてしまって。
活断層の走っている場所とそうでないところで被害が全く違う。人の命がわずかな偶然で左右される不条理……考えても答えは出ないんですけどもね」
被災後の複雑な心理状態が谷川の心に重く圧し掛かっていた。再び6冠を防衛した羽生の挑戦を受けた翌年の王将戦で4連敗、ついに7冠独占を許してしまう。背中越しに大量のカメラのフラッシュを浴びながら、人生最大の屈辱を噛み締める。それはまた、長いスランプ脱出の契機となった。
「タイトル数が7対0になって、もはや比較の対象にすらならなくなった。そのうち羽生さんはテレビのワイドショーに度々出てくるようになって、ああ、この人は違う、自分は自分なんだと思えたんです。少しずつ、ですけどね」
この年の11月、羽生から竜王を奪取する。第2局、光速の寄せ復活を誇示した7七桂は、羽生の呪縛から解かれた会心の一手だった。谷川はそのとき、ようやく嫉妬心を受け入れられたのだ。
後年、谷川は心理学者の故河合隼雄からこんな話を聞く。
「嫉妬心を持つのは可能性がある証です。手の届かない人に嫉妬はしない。向上心があるからですよ」
嫉妬という言葉を口にするのも恥ずかしく思っていた谷川は、確かにそうだな、と合点したという。
「羽生さんには随分と痛い目に遭いましたけど、彼のお陰で私も高めてもらった。名局は二人で作り上げていくものですし、名勝負はやはり大きな舞台が生み出す。私ももっと若い人たちと大きな舞台で戦いたいですね」
過酷な自我との闘いである勝負の大舞台へ、50歳となった今でも、谷川の闘志は衰えていない。
※週刊ポスト2012年10月26日号