中国は今年4月、南シナ海のスカボロー礁をめぐって岩礁を実効支配するフィリピンと衝突した。岩礁付近で操業していた中国漁船を取り締まろうとフィリピン側が海軍の船を出したところ、中国は漁業監視船を投入。2か月にわたって睨み合いが続いた。この時に中国が展開した“世論戦”を、元外務副報道官で慶應義塾大学大学院特別招聘教授の谷口智彦氏が解説する。
「中国は、『ただの民間の漁船に対して、フィリピンはいきなり軍隊を出してきた。こんな野蛮な威嚇は許されない』という主張を繰り広げたのです。実はフィリピンでは、そうした状況下で投入できるまともな船が海軍のものしかなかった。むしろ中国が投入した監視船のほうが、フィリピン海軍の船より大きくて新しかった。
つまり、中国側の主張は自分たちに都合のいい事実の一面に過ぎないのですが、その主張をワシントンやロンドンで政府関係者やメディア、シンクタンクの人間に中国の外交官らが繰り返し吹き込むわけです。
すると、もともと中国にいい感情を抱いていない人間でも、『中国の言い分にも一理ある』と思うようになってしまう。〈嘘も100回言えば本当になる〉とはヒトラーの側近・ゲッペルスの言葉ですが、私は中国のこうした国際世論への訴えかけを『ゲッペルス方式』と呼んでいます」
世論は真実によって形成されるわけではない。嘘であっても広く認識されたものが“事実”となる。スカボロー礁の問題にしても、中国が領有権を主張し始めたのは尖閣諸島と同様に周辺海域で埋蔵資源の存在が明らかになって以降のことだが、そうしたことは欧米諸国には伝わらない。
実際、ニューヨークタイムズで「尖閣は中国の領土」と断じるコラムが掲載されたことからも分かるように、尖閣諸島の「国際世論戦」で日本は押されている。「日米安保があるからアメリカはどんな時も日本の味方」などと思い込んでいたら痛い目に遭う。
「国際世論とは、要は英語世論を指します。それは米英の主要紙、主要放送局など10に満たないメディアが作っていると考えていい。中国大使館は日本でも定期的に大手メディアの論説委員クラスを大使館に招いて自分たちの考えを伝えているし、米英などでも同じことをしています。日本の外交官もようやく丁寧な説明を始めてはいるが、中国の後塵を拝している感は否めない」(谷口氏)
そもそも米英の主要メディアの論説委員、コラムニストたちは極東の小さな無人島をめぐる争いにほとんど無関心と言っていい。彼らの認識は、せいぜい「日中が何やらもめている」「歴史問題が解決しないから、ナショナリズムを煽っているんだろう」といった程度のものだ。だから、「過去の侵略戦争を反省せず経済的利益を追求する日本に責任がある」という中国が作った結論に誘導されてしまう。
逆に言えば、日本が国際世論への広報活動を適切に行なえば日本の主張に理があることは伝わる。谷口氏が語る。
「尖閣を領土紛争だと言うと中国の思うツボになりますが、一般論として、国際法においては領土問題が発生した日以降に積み重ねられた事実は、事実認定の段階で却下されます。尖閣諸島周辺で油田の存在が指摘された1971年まで、中国は領有権を一切主張しませんでした。
今になって、中国は既成事実の積み重ねで現状を変えようとしていますが、これは法に基づく国際秩序自体への公然たる挑戦です。このことをしっかり国際世論に訴えていけば、普遍的な訴求力を持つはずです」
成熟した民主主義国家である日本に対する評価は高い。その強みを活かして正論を掲げ、戦略的に「国際世論」に反映させていくことで、中国は「この状況で尖閣に攻め込んだら世界から集中的な非難を浴びる」と躊躇することになる。そうやって戦火を避けつつ、日本の国益を守ることこそが、最も優れたインテリジェンス戦略なのである。
※SAPIO2012年12月号