「自分さえよければいい」「他人なんて関係ない」という利己主義、個人主義の蔓延は、血縁や地縁の絆が強かった時代に比べて社会の弱体化を招いている。しかし、これは日本人本来の姿ではない、と日本史家の磯田道史氏はいう。江戸時代に生きた人々の「無私の精神」は、とかく利益や我欲に傾きがちな現代日本人の人生観に深い余韻を与えるはずだ。藩政を倹約して餓民に施し、茶道の道楽を批判した水戸の殿様・徳川治保の生き様を、磯田氏が紹介する。
* * *
江戸時代には為政者にも、見あげた無私の逸物が揃っています。水戸藩六代目当主の徳川治保(1751~1805)は、安逸をむさぼっていた諸大名とは雲泥の差の生涯を送りました。
彼の父・徳川宗翰は酒色に溺れ、政をなおざりにしたばかりか、錯乱して信望の厚い家臣を斬り捨てます。宗翰はそれを苦に自死し、治保は15歳にして家督を継がざるを得なくなった。ところが領内は100年連続で人口が減り、経済は乱れ放題。しかも少年藩主を補佐する側近は父が殺してしまっている。
治保は無私を旗印に改革に乗りだしました。郡奉行を4人から11人に増加して、くまなく農民の生活状況を調べさせ、報告をもとに施政します。自分の生活費を倹約し、浮いた金で稗を買い餓民に配りました。
高価な茶道具を求めず、道楽に堕した茶道を公然と批判します。家臣が家宝の茶碗を割った時にも、平然と言い放ちました。
「茶碗なんかより、お前が苦悩するほうが私には困る」
彼の口癖はこうです。
「民を苦しめない政治をすれば後で国益が必ずついてくる」
※週刊ポスト2013年1月25日号