1970年代のコンピューター業界といえば、ちょうどハードウェア全盛の時代からソフトウェアの明るい将来展望が見え出した時代。そんなとき、米IBMで新しいソフトウェア開発を指揮していたフレデリック・ブルックス氏の著した『人月の神話』(1975年初版)がロングセラーとなった。
「人月」とはソフトウェアの組み立てに要する工数の単位で、ブルックス氏は単純に人と時間をかけても開発効率は良くならないと説いた。
日本でもこの専門書をバイブルにしていたシステム開発者は多いと聞くが、その中のひとりが元ソニーで半導体事業のナンバー2まで務めた鶴田雅明氏(56)だ。そんなソニーの“知能”が、今年1月から韓国・サムスン電子の日本法人(日本サムスン)のトップに就いた。
「鶴田氏はソニーを辞めてわずか2か月足らずでの電撃移籍。しかも、ソニー現社長の平井一夫氏と同じソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEI)出身。業績不振で平井体制の真価が問われている真っただ中、よりによって宿敵のサムスンの幹部になるのは普通ならばあり得ない話。よほどソニー内でやりたいことができなかったのだろう」
と、業界関係者はソニーの苦しい台所事情を察する。周知の通り、ソニーは液晶テレビ事業の不振を理由に2005年以降、度重なる人員削減を断行してきた。その結果、事業構造のスリム化は図れたものの、有能な技術者まで次々と他社へ流出する憂き目にあってきた。
中でもエレクトロニクス事業で日本企業を圧倒するサムスンへの転職組は、「100人規模に及ぶ」(人材紹介会社幹部)との声もある。これまでソニー内でデジカメやプリンターの主力技術がサムスンに流れたのでは? と事あるごとに噂されてきたのは、みなが人材流出の弊害を恐れていたからに他ならない。
その上、SCEIでCTO(最高技術責任者)に君臨し、ソニー全体の研究開発戦略を定める部署にもいた鶴田氏が日本サムスンの舵取りを行うとなれば、同社にソニーのDNAをそっくり“移植”する形になるのではとの危惧もある。
本家ソニーにとって致命的な損失にならないか。経済誌『月刊BOSS』主幹の関慎夫氏がいう。
「ソニーの幹部までなった人だから、守秘義務契約があって技術漏洩はできないと思います。それよりも鶴田さんがサムスンで求められているのは、エンターテインメント分野も含めた幅広い半導体の使い方、すなわちエレキ事業全体の将来像を描く思想や考え方を伝授することにあると思います」
サムスンの2012年の業績は、売上高(約16兆5000億円)、営業利益(約2兆4000億円)と、ともに過去最高を更新しそうだ。利益額はソニーのみならず、日本の主要電機メーカーの稼ぎを足しても遠く及ばない。だが、関氏はこのままの勢いが続くのかは疑問だと指摘する。
「サムスンが強いのは、ディーラムと呼ばれる半導体メモリを使ったベーシックな製品ばかりを量産効果と意思決定の速さで賄っているから。でも、その先に何があるのか見越せていません。新しい収益柱を育てるのは、大きな組織になればなるほど深刻な問題なのです」
鶴田氏の愛読書は『人月の神話』のほか、軍の参謀や兵法の話が盛り込まれた軍事史だという。ソニーの黄金期にマネジメント手法を学んだ大物を三顧の礼で迎え入れたサムスン。その狙いは技術力の強化より、むしろ「大企業病」という病魔に冒されかけている組織の引き締めにあるのかもしれない。