徳川四天王の一人として家康を支えた武将・本多忠勝。生涯57回の戦で1度もかすり傷を負わなかったというのだから並みの強さではない。
終生、家康に対して忠義を尽くした忠勝だが、一度だけ主君に対して啖呵を切ったことがあった。それは“関ヶ原の戦い”で敗れた西軍側についた真田昌幸、信繁(幸村)親子の助命嘆願である。
忠勝の娘は昌幸の長男・信之に嫁いでおり、娘婿の父と弟が処刑されるのを気の毒に思ったのだ。しかし家康は頑として聞き入れない。真田父子には戦で2度も苦い思いをさせられていたからだ。忠勝は「殿と一戦も辞さず」と啖呵を切り、これには家康も唖然としたという。結果、真田父子は高野山へ蟄居ということで済んだ。
戦場では傷ひとつしなかった天下無双の忠勝だったが、死の直前、小刀で彫り物をしていて自分の名前を刻もうとした時、手を滑らせて切ってしまう。生まれて初めてのケガといわれ、このとき「自分の命運もこれまでか」と語ったという。事実、その数日後にこの世を去った。
※週刊ポスト2013年3月22日号