新たな資料の発見で歴史の定説が覆るのは、現代史においても例外ではない。誰もが知る有名作家の「傑作」に、書き換えを迫られるという事態が起きている。
作家・松本清張(1909-1992)といえば『砂の器』『点と線』などの推理小説で知られる国民作家だが、近現代史に取り組んだノンフィクション作品も有名だ。その代表作が『日本の黒い霧』である。
同作は下山事件や帝銀事件、松川事件など戦後日本で起きた迷宮入りの怪事件を題材とし、その背後にある米国の謀略に切り込んだ全13話の作品だ。月刊『文藝春秋』に1960年1月から12月まで連載された後、翌1961年に単行本化されて版を重ね、現在は文春文庫に上下巻で収められている。
そんな「傑作」をめぐって起きた騒動の原因は「革命を売る男・伊藤律」と題された第6話だ。主人公・伊藤律(1913-1989)の遺族が、「全くの無根拠と憶測で当局のスパイであったかのように記述されている」として、伊藤律の名誉回復と遺族の精神的苦痛を除去するために第6話の出版を取りやめるように、文藝春秋に申し入れたのだ。
松本清張は『日本の黒い霧』の中で、日本共産党政治局員だった伊藤律が1941年に警察の取り調べで供述した内容がゾルゲ事件(*注)発覚の糸口になったと記述。つまり伊藤は権力のスパイとなって“仲間を売った”とされているのだが、遺族側は「信憑性の低い資料に依拠している」と反論。その他、逮捕歴の誤りや時系列の矛盾など、数々の事実誤認があると指摘している。
伊藤は1951年に中国に亡命したが、1953年に党を除名されると中国の監獄に投獄され、27年間幽閉された。その間、死亡説が流れるも1980年に奇跡の帰国を果たし、「(ゾルゲ事件で処刑された)尾崎を売るようなことをした憶えはない」と発言。9年後にその生涯を閉じた“悲劇の革命家”だ。
近年、「伊藤律スパイ説」を否定する新たな資料が発見されたことも遺族側を後押ししている。
一橋大学名誉教授の加藤哲郎氏は、2007年に米国国立公文書館が機密解除した資料の中から、川合貞吉という人物に関するファイルを見つけた。その資料から、川合がGHQ直属の謀略組織「キャノン機関」から月に2万円をもらって日本の共産主義者の情報やゾルゲ事件の情報を米国に売っていたスパイだったことが明らかになった。この川合こそ、松本清張が依拠した資料の執筆者だったという。
「今でこそ日本の資料と外国の公文書を突き合わせて本格的な検証ができますが、松本清張が執筆した当時は一面的な資料に頼らざるを得なかったのでしょう」(加藤氏)
気になるのは『日本の黒い霧』の今後だ。同作は1話ごとに独立した構成であるが、13話がまとまってひとつの作品となっている。遺族側が主張するように、第6話だけ削除するにも出版社の判断では難しく、著作権者である松本清張の遺族の了解が必要となる。
伊藤の遺族側は「交渉の経緯は4月15日に開く記者会見で明らかにします」(伊藤律の名誉回復する会代表・渡部富哉氏)と回答。
一方の文春側は「『日本の黒い霧』は、戦後史の謎を解明する上で、極めて貴重な視点を提示した名著です。ご指摘に対しては対応を誠実に検討し、話し合いを続けている最中であり、現時点でコメントは差し控えさせていただきます」(文藝春秋出版総局長・村上和宏氏)と答えた。
いずれにしても、歴史の真実が明らかにされる解決を望みたい。
【*注】ソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動を行なっていたとして、1941年から1942年にかけてその構成員が逮捕された。リーダーであるリヒャルト・ゾルゲと元朝日新聞記者の尾崎秀実が死刑にされた。
※週刊ポスト2013年4月19日号