落語という芸は極めてシンプルであり、それゆえに演者は大事なことを伝える真のコミュニケーション能力を、観客はそれを受け取る想像力を求められる。
だが、最近の日本人はそれらコミュニケーション能力や想像力を欠いているのではないか。様々な悲惨な事件が起きる背景にはそうした日本人の劣化があるのではないか──。六代桂文枝師匠はそう危惧している。
──近年起こっている事件を見ると日本人は情を忘れてしまったようだ。特に若い世代はコミュニケーション能力が低下していると言われる。
文枝:だいぶ前からキレやすい若者が増えたと言われますし、ネットの掲示板では、激しい言葉で他人を攻撃したり中傷したりするのが当たり前になっています。
それに対応することだと思いますが、テレビの笑いの質が劣化しています。今は芸人同士が「コイツはこんなアホな失敗をした」とか、「アイツにはこんなひどい欠点がある」といったことを暴露し合い、それを聞いたスタジオにいる出演者が笑うということが多い。つまり、他人をバカにして笑いを取るのです。
ボキャブラリーも貧困で、「アホか、お前は」とバカにするだけ。しかも、バカにされた方も、イジられることが人気の証しと思っているかのように、喜んだり得意気になったりしている。
テレビがそうした安易な笑いを毎日流していると、それを見た子供たちが真似をする。しかし、芸人と違い、子供たちの中には傷つく子もいる。イジメられたと感じ、追い詰められる子もいるでしょう。
──昔の笑いは違った。
文枝:落語に限らず、昔の漫才やコントは計算し尽くされた芸で笑いを取っていました。そこにはユーモアもあれば、ペーソスもあれば、知性もあった。そして、何より情がありました。人をバカにした笑いは見る人、聞く人に後味の悪さが残りますが、情のある笑いは心を温かくします。
──むしろ日本人は退化しているのかと悲しくなる。
文枝:そうかもしれませんね。例えば、今のテレビは人間の想像力を削ぐような作り方をする傾向が強まっています。
わかりやすく伝えるためなのかもしれませんが、ドキュメンタリーでもバラエティでも再現ドラマを多用し、しかもすべてを説明しようとするようにテロップをやたらとつける。そこには視聴者が想像力を働かせる余地が全くありません。いわゆる行間を読む必要がないのです。しかし、説明が過剰になることによって、大事なことがこぼれ落ちていくのです。
そういう環境に慣れてしまった視聴者は、わかりやすいものばかりを求め、想像力を働かせないと理解できないものを避けるようになります。しかし、他人の気持ちに想像力を働かせ、それを思いやるのが情です。
最近の日本人が情を失いつつあるのは当然かもしれません。もっと落語のように「間」のある演芸、余韻のある演芸を楽しむ余裕を持つべきではないでしょうか。
※SAPIO2013年5月号