「ブラック企業=悪」という図式は定着しつつあるが、一向にブラック企業がなくなる気配はない。しかし、ブラック企業を悪だと糾弾すれば問題は解決するのだろうか? ジャーナリストの伊藤博敏氏が、この問題について解説する。
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企業はすべてブラック企業的なるところからスタートするという現実を忘れてはなるまい。「ブラック企業偏差値」の上位に名を連ねる企業には、オーナーが一代で築いたベンチャー企業が少なくない。そこにあるのは、「人と同じ発想や努力では生き残れない」というシビアな社風であり、「勝ち残り組」のオーナーは社員にも刻苦勉励を求める。
ベンチャー企業は無理をする。楽天の三木谷浩史社長のようなピカピカのエリートもいるが、東大卒であってもリクルートの故・江副浩正元会長、ライブドアの堀江貴文元社長のように“はぐれ者”も少なくない。
彼らの頭の中にあるのは、早く会社を大きくしたいという欲望であり、成長を促す資金繰りである。社員の福利厚生や職場環境の整備によって社員の定着率を高めるより、ついてこられる者だけを大事にする発想になりやすい。それを身勝手と言い、ブラック企業と誹る(そしる)のは簡単だ。全肯定はできなくても、その泥臭さの中で這い上がらなければ、安定した業績を上げられる一流企業の域に達しないのもまた事実である。
批判に晒されるファーストリテイリングについても、「競争力のあるグローバル企業として成長しようと思えば無理せざるを得ない。大志ある若手を求め、彼らを育てようとした結果、要求が高くなり、高い離職率にもなった。『人を大事にする仕組み』はともすれば甘えを生み、競争力を衰えさせる環境になってしまう」(業界関係者)という声もある。
日本型雇用慣行に沿って人を大事にした結果、能力はないのに年齢を重ねたというだけで安定した高い収入を得る層が生まれてしまった。一部の大企業には「ウィンドウズ2000=窓際なのに年収2000万円」と揶揄される社員もいる。それで企業の競争力が高まるはずがなかろう。伸び盛りの企業は旧来型企業の側から疎まれる。そこに寄り添う老舗の経済メディアが新興企業批判キャンペーンを展開するブラック批判にはそんな構図も見え隠れする。
世界のエリート企業はより過酷さを求める。シビアな人事制度で知られる企業の人事担当者が、こう皮肉る。
「韓国の一流企業は、出張したら帰りの飛行機で映画を見たり、酒を飲んだりせず、ひたすら出張リポートを書き、翌朝一番で提出するというやり方を幹部に求めています。そのうえで毎年、成績下位の1割は辞めさせる。そんな国の企業と、ブラック企業叩きをしている国が戦えますか?」
神経を病むほど社員を追い込む会社は認められない。ただ、レッテル貼りにも意味はないだろう。必要なのは、ブレない規制緩和による雇用の流動性の確保である。ブラック企業の淘汰は、あまりに酷ければ人は寄りつかないという自然の摂理にある程度は委ねてもいいのではないか。
※SAPIO2013年5月号