5度にわたる渡航失敗の苦難で失明しながらも、唐から仏教の戒律を伝えるために日本にやってきた鑑真。しかし、これはフィクションで鑑真の目は見えていたとする説が注目されている。
正倉院に伝わる鑑真の手紙を詳細に分析し、全盲説を否定する奈良国立博物館の西山厚学芸部長は、こう語る。
「東大寺の僧、良弁に経典の借用を申し入れた手紙を見ると、とても全盲の人が書いたとは思えません」
西山氏によれば、手紙の3、4行目にある4つの「部」の最終画の長さが、余白に配慮してそれぞれ異なり、盲目の人では無理な芸当だという。西山氏が続ける。
「弟子が代筆したと考えても、鑑真の高弟とは筆跡が異なります。『鑑真』の署名も行書体の続け字で書かれているし、3、4行目の書き出し位置も違う。カリスマ的指導者だった師匠の代筆は相当の緊張感があるはずだが、その割には自由に書かれている。やはり、鑑真本人が見えていて書いたとしか思えません」
奈良時代の「東征伝」には、5度の渡航失敗の後、〈眼ついに明を失せり〉との記述があり、これが盲目の根拠とされる。
「『東征伝』では、僧、良弁が鑑真を大仏に案内し、これほど巨大な大仏が唐にあるか鑑真に問うくだりもありますが、目が見えないなら、ひどく嫌味な行動で不自然なものになります」(西山氏)
もっとも、西山氏も来日後に鑑真が失明したことには疑いを持たない。鑑真の孫弟子が記した書物に、最晩年にようやく視力に問題が生じたとあるからだ。
しかし、鑑真の弟子ら数多くの僧が日本にたどり着く以前に死んでおり、当時の渡航が命懸けであったことに変わりはなく、鑑真が日本で唐招提寺を建立するなど仏教の発展に果たした功績には何の疑問の余地もない。
※週刊ポスト2013年5月24日号