作家・三島由紀夫は1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決する直前、このような檄文を発した。
「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう」
あれから43年、憲法改正の機運が高まるいまなお、あのときの三島の切実な問いに応える論議はない。しかし、三島の覚悟をいまに伝える唯一の“遺産”が、初めて全文公開される。三島の憲法改正草案である。
〈天皇は国体である〉
〈日本国民は祖国防衛の崇高な権利を有する〉
この条文は、三島由紀夫が「楯の会」の憲法研究会に作成を指示し、自らも議論に加わってできあがった憲法改正草案の一部である。楯の会とは、左翼勢力に対抗するため、三島の主導で学生を中心に約100人で結成された民兵組織だった。三島はそのうち13人を憲法研究会のメンバーとして、1970年安保に向けて学生運動が激化した1969年12月以降、毎週3時間、計34回にもわたる討議を繰り返した。
だが、それだけ三島が情熱を注いだはずの改正草案は、日の目を見ることはなかった。三島が割腹自殺したからだ。
三島の死後の1971年2月、残された会員らによって「維新法案序」と題された草案がまとめられたが、一部公開されることはあったものの、原文は封印されたままだった。ところが今回、当時の楯の会主要メンバーであり、憲法研究会に所属していた本多清氏が、その全文公開に踏み切った。しかもそこには、三島が草案作成に先だって記した直筆の「問題提起」が添えられていた。
なぜ本多氏は、43年にもわたる封印を解いたのか。
「三島先生が自決した日は、研究会で討議する予定になっていた日でしたが、事前に中止になった。私には全く予兆がなかったが、三島先生は前もって準備していたのです。先生は、勢いだけで自決したのではないことを示すために、死後この草案を世に問うつもりだったのではないでしょうか。
しかし、当時の私たちは未熟であったし、憲法論議そのものがタブーとされる風潮があった。あれから40年以上経ち、憲法改正の機運が高まったいま、その是非はともかくとして、憲法論議の端緒になることを期待して、草案を公開することにしたのです」
※週刊ポスト2013年8月16・23日号