終戦から68年。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。そこで元日本軍兵士たちの“最後の証言”に耳を傾けてみたい。ここでは元陸軍飛行第77戦隊軍曹、関利雄氏(89)の証言を紹介する。
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〈関氏は大正12年生まれ。昭和15年、16歳で東京陸軍航空学校入校。熊谷陸軍飛行学校を経て、陸軍飛行第77戦隊に所属。同18年以降、シンガポール、インドネシア、フィリピンなどの南方戦線を一式戦闘機「隼」の操縦士として転戦した。〉
玉音放送はシンガポールで聞いた。混信が多くてよく聞き取れなかったが、負けたんだということはわかった。部隊の中には「国籍を捨ててでも徹底抗戦すべし」なんて声もあったが、皆なんとか思い留まった。
その後、武装解除されて10月に送り込まれたのがインドネシア領の「レンパン島」だった。後から知ったが、南方戦線にいた10万人あまりの日本兵が抑留された無人島だった。 英軍からの配給は最初に4日分渡されたきり。割り当てられた地区で、ジャングルを伐採して棲家を建てる建築班、野草を採取する農耕班、魚を獲る班などに分かれ、ただただ生き延びようと必死だった。
10日間くらいすると、誰も笑わなくなった。そして何もしゃべらなくなった。作物を育ててもすぐ虫に食われてしまう。最初は顔や手足がむくみはじめる。腕の皮膚を押すとへこんだままの何とも異様な形になった。その後、体がどんどん痩せていき、アバラ骨が浮き出て、杖なしでは歩けなくなった。
辛かったのは大便をする時。便意が来ても、食べていないからウサギの糞のようなものがコロコロと出るだけ。それにも2~3時間かかって、一気に体力を消耗してしまう。こうなると、なんでも口に入れるようになる。トカゲや野ネズミ、バッタ……。熱帯のジャングルだから、コブラやマムシといった蛇も捕れる。焼いて皮を剥いで食べた味は、スルメのようだった。
一度だけ大きなニシキヘビが捕れたことがある。これは思わぬご馳走だった。粥に入れると脂がのっていてうまい。あの味は、今も忘れられない。
抑留1か月が過ぎた頃から、港に食料の配給が届くようになった。島の港までジャングルのぬかるみを片道3時間かけて受け取りに行く。道中、食料を略奪する日本兵の山賊が出るという噂があったし、物乞いをする兵隊もいた。
私の周りで餓死者が出ることはなかったが、カニやゴムの実をかじって中毒で命を落とす者は後を絶たなかった。結局、抑留生活は昭和21年5月まで続いた。いつまで生きていられるのか不安な日々。夜、寝る時は誰もランプを灯そうとしない。希望なんて感じることができなかったからだと思う。
●取材・構成/竹村元一郎(ジャーナリスト)
※SAPIO2013年9月号