戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。戦争の記憶が少しずつ日本から消えていっているが、今こそ戦争を直接知る日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみよう。ここでは元海軍空母「蒼龍」戦闘機隊小隊長の原田要氏(96)の証言を紹介する。
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〈原田氏は大正5年生まれ。昭和8年、一般志願兵として海軍に入隊。零戦パイロットとして同16年の真珠湾攻撃の成功、そして同17年のミッドウェー海戦の敗北を目の当たりにする。同年10月にはガダルカナルでの空中戦で墜落して重傷を負い、北海道の千歳航空隊で終戦を迎えた。〉
真珠湾攻撃以降、破竹の勢いで勝ち進み、自信過剰になっていた我々が手痛い敗北を喫したのが昭和17年6月のミッドウェー海戦であった。
アメリカ軍雷撃機との戦闘中に母艦である空母「蒼龍」が沈められ、私は攻撃を免れて奮戦していた空母「飛龍」に着艦。穴だらけになった愛機は海に投棄され、別の零戦で再び発艦した直後、「飛龍」も爆撃により黒煙をあげた。帝国海軍は虎の子の空母4隻を失うという大敗北であった。
着艦する空母がなくなり、燃料も尽きたため、もはや海面に不時着するしかなかった。敵爆撃機が上空に姿を見せる中、「もはやこれまで」と自決を考えもした。少し離れたところに浮いていた戦友のパイロットが、拳銃で自ら命を絶つところが見えた。
戦場で生死を分けるのは、ほんの些細な偶然だったりする。いつもは必ず携行しているはずの拳銃を、私は混乱の中で「飛龍」の艦橋に置き忘れてしまっていた。もしあの時、手元に拳銃があったらこうして生き残ることはなかったと思う。それほどまでに救命胴衣を身につけて暗い海をただただ漂うのは苦しかった。
死ぬこともできず4時間ほど経ったところで、同じように浮遊する戦友たちを拾い上げるために、味方の駆逐艦がやってきた。長時間、水に浸かっていたから体は麻痺して動かない。味方に抱えられ、甲板に引き揚げられ、助かったのだと胸をなで下ろした。
しかし、甲板の上はさらなる地獄絵図だった。顔が焼け爛れた兵士、手足を無くした者たちが横たわり、足の踏み場もない。あちこちから、「助けてくれ」「おっかさん」と呻き声が聞こえる。
軍医の先生が真っ先に私のところに駆け寄ってくる。なぜ私なのか? 苦しんでいる兵士を先に診てあげてほしいと頼むと、こう返された。「平時なら一番の重傷者を先に手当てする。だが、戦時の医療は違う。軽傷者から手当てして、戦場に復帰させるんだ。君、これが戦場なんだよ」
それまでに何度も戦場を体験していた。だが、戦いに敗れた時の非情な現実を初めて突き付けられた。しかも、パイロットは養成に時間がかかるから他の兵士より大事にされる。2人の看護兵によって、私は艦長室へと連れていかれ、艦長のベッドに寝ることを許された。いくらなんでも、甲板でのたうち回る負傷兵たちに申し訳なくてたまらなかった。
それでも、駆逐艦の艦長の優しさには救われた。朝食前の緊急発艦から終日飲まず食わずの戦闘と海上浮遊で疲れ切っていた体は正直で、申し訳ないと思いながら私はベッドですぐに眠りに落ちた。夜中に空腹と喉の渇きで目を覚ました時、棚にあった飲み残しの葡萄酒を思わず飲み干してしまった。体が一気に温まり、再び眠りに落ちた。
次に物音に気付くと、艦長が何かを探していた。はたと、飲み干したのが艦長のとっておきの葡萄酒だったことに気付く。どんな叱責でも受けようと素直に謝ると艦長は、 「あ、そうか。それはよかった。元気になってまた飛べよ」と何事もなかったように許してくれた。あの優しい眼差しは決して忘れない。
死を覚悟して何度も空に飛び立つ勇気を奮い立たせたのは、「この上官のためなら死んでもいい」と思わせる軍人がいたからだ。
●取材・構成/横田徹(報道カメラマン)
※SAPIO2013年9月号