終戦から68年が過ぎ、戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:石井富雄(87) 元関東軍第126師団歩兵第278連隊第2大隊兵士
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〈石井氏は大正15年生まれ。福岡県の中学を卒業後、満州に渡り大連高等商業学校へ進学。昭和20年、関東軍の「根こそぎ動員」により召集令状を受け、19歳でソ満国境近くに展開する第126師団歩兵第278連隊に入隊。満州東部、興凱湖近くで国境警備の任務にあたった。〉
昭和20年8月9日の深夜、ついにソ連軍が満州になだれ込んできた。国境沿いの監視所はあっという間に制圧され、翌10日には迫撃砲が不気味な音をたてて私のいた陣地の頭上を通過し、後方に着弾するようになった。敵の姿はまったく見えず、木々に向かってやみくもに発砲した。
翌日、部隊は撤退を始めたが、途中でソ連軍と遭遇して散り散りになってしまった。50人ほどの一個小隊規模になりながら撤退を続けていたところ遭遇したのが、50人ほどの日本人の一行だった。国策で満州や内蒙古などに入植していた開拓団(満蒙開拓移民団)だ。
壮年の男は関東軍に徴兵されていたので老人や女性ばかり。子供もほとんどいなかった。国境地帯から逃げてきた一団は、途中で武装した満州人から何度も襲われたといい、少数とはいえ日本兵に出会えて安心したのか、涙を浮かべながら走り寄ってきた。
彼らの話は、俄には信じがたいものだった。逃げる時に足手まといになる赤ん坊や幼い子供たちを小屋に閉じ込め、断腸の思いで火を放ったと聞いた時は言葉が出なかった。彼らと話している時、ふと見ると地元の農民らしき中年の満州人男性3人が私たちを遠巻きに見ていた。
それに気付いた開拓団の一人が、5歳ぐらいの男の子を指さして、「この子の家族は武装した満州人に殺されたんです。あいつらも農民を装っているけど私たちを殺そうと考えているんだ!」と声をあげた。悲惨な逃亡生活を送る彼らは、精神的にも追い詰められていたのだろう。
それを聞いた古参の上等兵が、3人の満州人を取り押さえるよう命じた。この上等兵は中国から満州に転属してきた、戦闘経験の豊富な強者だと聞いていた。縄で縛りあげられた農民を前にして、上等兵は竹槍を開拓団の男の子に手渡すと、「殺された家族の仇を討ちなさい」と命じた。5歳くらいの男の子にである。
学徒あがりの小隊長は止めようとした。それでも、「こういう連中を放っておくと後で仕返しされるから殺したほうがいい。中国でも匪賊に我々は苦しめられた」と上等兵は聞かない。
兵士たちから「殺せ」と煽られた少年は渾身の力で手にした竹槍を農民に突き刺した。しかし、子供の力では槍先は皮膚を突き破ることはなかった。農民が「アイヤー!」と悲鳴をあげて逃げ出すと、上等兵たちはその背中に向けて小銃の引き金を引き、3人はその場で命を奪われた。
私は何もできなかった。この時の光景と農民の悲鳴は今も忘れることができない。兵士も開拓団の人たちも、とにかく迫り来る恐怖から少しでも逃れたかったのだろう。戦争というのは、本当に人間をおかしくしてしまうものなのだ。
●取材・構成/横田徹(報道カメラマン)
※SAPIO2013年9月号