昭和生まれで、投手なら200勝か250セーブ、野手なら2000本安打を記録した選手が入会できる「日本プロ野球名球会」(以下、名球会)。まさに球史に燦然と輝く成績を残した者のみに与えられる最高の栄誉である。しかしこの名球会の会員名簿から、3人の名前が忽然と消えていた。いったい、何が──。
名球会を退会した3人とは、“ミスター・ドラゴンズ”谷沢健一氏、V9時代の巨人のエース・堀内恒夫氏、そして400勝投手であり名球会創設者の金田正一氏。いずれも名球会発足初期からのメンバーである。なぜ、その名前が名簿から抹消されているのか。
理由について名球会事務局に訊ねたが、「確かにこの3人は退会していますが、理由は当会としてはわかりません」と答えた。
ならば、本人たちに聞かねばなるまい。しかし彼らの返答も、今ひとつ要領を得ないものだった。まずは谷沢氏の弁。
「退会の理由はいえません。でもボクは今でも名球会の会員ですよ。カネさんも堀内君もそうだと思うが、今も会員として自覚ある行動をしているつもりです」
堀内氏は、夫人を通じて「退会しました」と答えるのみ。先日、参院議員へ繰り上げ当選を果たした同氏。政界への挑戦が退会の原因かとも思われたのだが、ある会員は「政治家転身は関係ないはずだ」と否定する。
創設者の金田氏も「退会などしておらん」という主張を繰り返した。
「名球会はワシが作った会なんだから、退会なんてありえない。今の名球会は、ワシが作って育て上げたものを横取りした別の組織だ。本当の名球会は自分でちゃんと守っていますよ」
退会しているのに、まだ名球会員だと言い張る往年のスター選手たち……。どうにも話が見えてこないが、この背景を理解するためには、名球会の歴史を振り返っておく必要がある。
名球会は1978年7月、金田氏の音頭で創設された。将来の野球の底辺拡大に寄与すること、利益を社会還元することなどを設立理念に掲げたが、一方で選手同士の互助会的な役割も備えていた。
「OBたちで引退後の生活を助け合うために、金田さんが立ち上げた親睦団体という側面もある。会員の冠婚葬祭時には、規定額を包むのが慣わしとなっていた」(古参の会員)
1981年には税務上の理由から「日本プロ野球名球会」を商号とする「株式会社」となる。王貞治氏、長嶋茂雄氏、金田氏のONKが取締役となり、株を会員に分与。会員が株主となって運営されてきた。
転機が訪れたのは2009年だ。金田会長が会を私物化しているのではないかという疑惑が噴出し、その解任要求を議題とした株主総会の招集が請求される「クーデター」が起きたのである。
「名球会は長らく金田氏の個人事務所と同じ住所で登記され、経理もほとんど同じスタッフが処理していた。毎年開かれる総会で会計報告はあるものの、毎回10分程度でシャンシャン閉会となり、不透明な部分が多かった。質問をしようものならカネやんに“文句があるならオレの事務所へ来い”と一喝され、誰も発言できる空気ではない。会員の不信感は高まっていった」(球界関係者)
紆余曲折を経て、結局は金田氏が役員の辞表を提出。その後、名球会は2010年に一般社団法人として現組織を設立(王貞治・理事長、柴田勲・副理事長)、株式会社の方は2011年2月の株主総会をもって解散した。
金田氏、谷沢氏、堀内氏の3人は、この“新”名球会側の動きに反対を示し退会。自分たちこそが、「本流」であると主張しているというわけだ。
退会時にも一悶着あったという。複数の会員らの証言をまとめると、以下のような状況だった。
社団法人化にあたり、各OBには会員になるかどうかの書類が送られてきた。金田氏はそもそも社団法人化に反対していたため、もちろん拒否。「ワシを泥棒扱いしたヤツらには従わない」と怒り心頭だったという。
谷沢氏は新体制側に疑問を持っており、「帳簿などおかしな面が多い。もう一度、名球会そのものを作り直すべきだ」と全会員に意見書を送る行動に出た。新体制側は谷沢氏の説得を試みたが、決裂。退会を余儀なくされた。
堀内氏は、一旦は書類を提出して会員になったが、その後退会。詳細は不明だが、執行部との間に確執があったとされる。
谷沢・堀内両氏は金田氏に近しいことで知られ、3人の離脱を金田派・反金田派の「喧嘩別れ」と見る向きもある。
※週刊ポスト2013年8月30日号