終戦から68年が過ぎ、戦後生まれが1億人を超え、総人口の8割近くに達している。太平洋戦争を直接知る者は年々減り、当時の実態を証言できる者は限られてきた。今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:瀧本邦慶(91) 元海軍空母「飛龍」航空機整備兵
大正10年生まれ。昭和14年6月、17歳で佐世保海兵団に入団。空母「飛龍」の航空機整備兵として真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に参加。19年2月から赴任したトラック島で終戦を迎える。
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昭和17年5月27日、「飛龍」はミッドウェーに向かった。同じく空母の「加賀」「赤城」「蒼龍」などが参加した大艦隊だった。6月5日、ミッドウェー島を攻撃。第1次攻撃から帰艦した各機が次の攻撃に向け準備していたところに敵機が飛来し攻撃を受けた。
敵空母も現われたので装備を爆弾から魚雷に変更する命令が出て、大パニックの中、我々甲板の整備員は必死で積み替えた。爆弾を降ろし、魚雷を積む作業は2時間以上かかる。その間に帰艦する飛行機もあるから命がけだ。甲板では息せき切って作業した。遥か水平線を見ると「加賀」「赤城」「蒼龍」と相次いで炎上し黒煙が上がっていた。
やがて「飛龍」にも敵戦闘機の機銃掃射が浴びせられた。とっさに甲板に伏せると、体からわずか30cmの所にバンバンと被弾した。続いて急降下爆撃と魚雷攻撃が始まった。「飛龍」は全速力で蛇行を繰り返したが、急降下の爆弾が命中。燃料補給用のパイプが破れて引火し、何十発もの250kg爆弾や魚雷が次々と誘爆した。一面火の海になり、大音響と共に火柱が上がる。
空母は吃水から上が格納庫で、それより下は機関室や倉庫。艦上部が炎上すれば下にいる機関科員らは出てこられない。伝声管を聞いていた仲間の話では、艦底からどうしようもなく悲痛な苦しみの声が伝わってきたという。
「もう呼吸ができない……。苦しい……。熱い……」
彼らは避難できず、蒸し焼きとなって戦死した。
飛行機も母艦の炎上で着艦できず、グルグル旋回して敵機に撃ち落とされたり、燃料切れで着水したりして沈んでいった。我々整備員と搭乗員は強い絆で結ばれ、心から信頼し合う関係だ。彼らの顔が脳裏に浮かんだ。
「飛龍」はズタズタになり、艦体だけが残って何とか浮いていた。夜になり、艦内には燃えるものもない。不気味なほど静かだった。海水が浸入し次第に艦が傾ぐ。総員集合となり発着甲板に這い上がると、艦体が大きな口を開け、艦底が丸見えだった。
加来止男艦長が重苦しい声で「総員退艦を命ずる」と命令を下した。乗組員1500人のうち、助かった者は約500人。退艦のために下に降りていくと、何百もの遺体が転がっていた。
大半が黒こげで、体がバラバラに千切れている者や、機銃、高射砲要員が配置についたままの姿勢で焼死している姿が続いた。混乱した若い士官たちがウロウロするばかりで統制がとれない中、古参の兵曹長が日本刀を引き抜いて、「貴様たち、よく聞け。俺の命令に従わぬ奴はぶった切るぞ」と大声で叫んで指揮を執り、皆その命令に従い駆逐艦に移乗した。
戦利品として米国に曳航されないよう、「飛龍」を自ら沈めるために駆逐艦から魚雷が2発発射された。艦長と山口多聞・第2航空戦隊司令官らは艦と運命を共にされた。呉港に向かう途中、次々と出た死者は直ちに水葬となり、重い鎖をつけて海中に葬った。信じられないほどの大敗を背負っての帰港であった。
●取材・構成/三谷俊之(ジャーナリスト)
※SAPIO2013年10月号