今年の終戦記念日は、安倍晋三首相は靖国神社の参拝を見送ったが、閣僚3人が予定通りに参拝を行なったことで、やはり中国や韓国から反発の声が上がった。安倍首相には本当に戦没者への「尊崇の念」があるのか。作家の落合信彦氏が解説する。
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日本の政治家の靖國参拝に対して中国や韓国が怒りの声をあげるのはまったくもって筋違いだ。戦没者をどう弔っていくかは純粋な国内問題であり、隣国から横槍を入れられる類の話ではない。
だから参拝することは自由だと思うが、残念なのは安倍を含む“参拝派”たちが中韓と同じ土俵で争っているようにしか見えないことだ。
子供が言いがかりをつけるような議論にいちいち応じる必要などない。もし自分の信念で参拝したいと思うのであれば、何も言わずに静かに参拝して手を合わせればいい。それだけのことだ。
それなのに、安倍はわざわざ昨年の自民党総裁選の記者会見などで、
「第一次安倍内閣(2006~2007年)において参拝できなかったのは痛恨の極みだ」
と表明した。これは中韓のような品位を欠く国家が相手であれば挑発行為になる。国に命を捧げた者たちに穏やかな気持ちで祈りを捧げたいと思うならば、こんな言葉は必要ない。
結局、安倍は参拝を匂わせることで、自らの支持基盤である保守層の人気を強固なものにしようとしたのだろう。政治的な打算に過ぎない。
安倍は戦没者への「尊崇の念」という言葉をよく使う。だが、自分で煽った挙げ句に当日は参拝せず逃げ出すのだから、そこには尊崇の念のかけらも感じられない。
安倍の強硬発言に右翼が盛り上がり、左翼が大声で反論をがなり立てていることを考えれば、安倍の煽りはむしろ、死者に鞭打つ卑怯な行為にさえなる。
総理大臣だけではない。保守系のメディアはこぞって「靖國を参拝する国会議員が増えた」というニュースをさも喜ばしいことのように報じた。昨年の倍の約100人が参拝したという。
しかし、おかしいではないか。本当に戦没者への「尊崇の念」を持つ国会議員であれば、毎年参拝に行くのが自然だ。
結局、参院選などの結果から安倍のような保守路線が人気があると判断し、参拝する者が増えただけである。本来であればメディアは、今年から参拝を始めた議員に「なぜ昨年は行かなかったのか」と問うべきだろう。
※SAPIO2013年10月号