今から約70年前、日本は第二次世界大戦の真っただ中にいた。だが、当時を知る者は年々減っていく。元日本軍兵士はどんな体験をしたのか。“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:杉幹夫(88)元関東軍第63師団機動歩兵部隊兵士
大正14年生まれ。中学卒業後、昭和19年10月に陸軍に徴兵され、機動歩兵として満州の牡丹江省に派兵された。
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10月中旬を過ぎると満州は急激に気温が下がる。冬を迎えると外に出ただけで凍傷になってしまうほどだった。
外出できずに鬱憤の溜まった古参兵は、銃の磨き方が悪いと言っては私たち新兵を殴り、寝床の整頓が悪いと言ってはまた殴る。「戦場で死んだほうがマシ」と自暴自棄になっていたし、乱戦になると味方に撃たれる者が多かったという話には納得ができた。
そんな冬を越え、昭和20年3月、所属部隊は満州から沖縄決戦に向かうことになるが、私は胃腸を壊し、他の2人の兵士と共にソ連国境に近い黒河省に移動させられた。運命の分かれ道だった。部隊を乗せて沖縄に向かった輸送船は米軍に沈められ、多くの戦友が溺れ死んだ。死がすぐ側にあると感じられた。
8月からは奉天に転属となり、関東軍が貯蔵する物資の警備を行なった。そのまま終戦を迎えたが、私の分隊だけは食糧や衣類をソ連軍に引き渡すまで警備せよと指示を受けた。降伏した翌日、40代と思われる現地農民が食糧を目当てに貯蔵庫に忍び込んで捕えられ、木に縛り付けられた。
「せっかく戦争に来たのに一人も殺してない。せめて一人くらいは殺したい」
今振り返れば信じられない言葉だが、班長だった伍長はそう言うと私に見張りを命じ、8人の兵士と処刑を行なった。銃剣を突き刺すと人間の体は硬直し、抜けなくなる。力ずくで引き抜き、再び突き刺していったという。
殺された男には妻と子供3人がいて、飢えた家族に食べ物を与えたかったと弁明したらしい。ソ連軍に渡すぐらいなら飢えた現地の人に配布すれば良かったのだ。そうすれば日本人も少しは現地の人々から感謝されたはずだった。
殺害を終えた兵士たちは口々に「逃がしてやればよかった」と語っていた。
●取材・構成/横田徹(報道カメラマン)
※SAPIO2013年10月号