先の大戦から68年──今でこそ、あの大戦を振り返るべく、元日本軍兵士たちの“最後の証言”を聞いてみた。
証言者:関口一郎(99) 元陸軍東部第1900部隊兵長
大正3年生まれ。早稲田大学理工学部卒業後、東芝研究所を経て28歳で徴兵。東部第1900部隊に配属。高射砲部隊兵器修理班兵長として終戦を迎えた。
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東京の本郷連隊区から召集令状が届けられたのは昭和17年の初夏だった。覚悟はしていたが、まるで死刑宣告を受けたような気分だった。
配属された高射砲部隊の兵舎は今の東京ドームがある後楽園だ。初年兵時代は基礎的な訓練と雑用に追われる日々。上兵の食事の用意や洗濯、寝床の準備など、寝る間もなく働かされた。上兵のイジメもあった。配膳されたおかずが「他より少ない」という些細な理由でビンタを食らうことも日常茶飯事だった。
しかし、部隊での生活はことさら酷いものではなかった。初年兵でも肉や魚が食べられたし、食事のメニューも豊富だった。牛ステーキやポークソテーなどのご馳走は何よりの楽しみだった。1か月に数回は休日を与えられ、外泊も出来た。前線で戦う部隊と比べ、恵まれた環境だった。
入隊後11か月で兵長になった私は、慰問団係を担当することになった。芸人や歌手の受け入れを手配したり、映画の上映会を主催することもあった。当時、東京・内幸町にはパラマウントやディズニー、コロンビア映画などの代理店があり、軍はフィルムを「敵産管理」で接収していた。
それを拝借し、消灯時間の夜9時を過ぎてこっそり洋画の上映会を開いた。敵国の映画ながら、娯楽に飢えている兵隊たちの評判は上々だった。字幕はなかったが、後楽園の兵舎は『風と共に去りぬ』の日本初公開の場となった。
戦争の現実を目の当たりにしたのは、わが部隊が撃ち落としたB29の調査に出向いた時だ。残骸を調べると、乾パンやビーフジャーキーなど搭乗員の食料が次々と見つかった。
驚いたのは、お湯を注ぐだけで飲めるインスタントコーヒーまで積まれていたこと。兵舎に持ち帰った戦利品のコーヒーを飲んだ瞬間、「こんなすごい国とケンカしても勝てるはずがない」と悟った。
戦争末期になると、部隊の食糧事情も悪化し、身欠きにしんや昆布をおかずに、粟や稗のおかゆで腹を満たすようになった。同時に、それまで戦果を上げていた高射砲部隊は続々と襲来する敵機に大苦戦を強いられるようになった。
昭和20年3月10日の東京大空襲では、超低空飛行で焼夷弾を落とすB29の弾倉の窓から米兵の顔がはっきりと見えたのを覚えている。真っ赤な炎が反射し、まるで赤鬼のように見えたのが印象的だった。
8月15日の玉音放送を聴き、悔しさや悲しみより先に「仕方がない」という率直な思いが胸をよぎった。
※SAPIO2013年10月号